島から語る「大久野島と毒ガス戦」

リアルに作られた731部隊の人体実験の模型

リアルに作られた731部隊の人体実験の模型

12月13日~15日の3日間に「過去からいま未来へつなぐ―731部隊・毒ガス戦・核兵器を考える―」と題したパネル展と映画会、講演会がなかのゼロで開催された。主催はABC企画委員会。原発、核(アトミック:A)、細菌戦・生物兵器(バイオ:B)、毒ガス・化学兵器(ケミカル:C)のそれぞれの頭文字をとってすべての戦争に反対する意味から「ABC企画委員会」としたという。

当初は731部隊展実行委員会として1992年に発足し、その後「毒ガス展実行員会」の別組織を立ち上げ、731と毒ガスを一緒にして「ABC企画委員会」と改称した。これまで731部隊、毒ガスに関する調査、研究、資料収集と学習会、講演・展示会の開催。侵略戦争の跡地を巡るスタディツアー、731部隊の遺跡保存と世界遺産登録に向けた活動などをおこなっている。改称してから丁度20年を迎えたこともあり、12月8日(真珠湾攻撃)、13日(南京虐殺)に合わせる形で13日~15日に集会・パネル展を開催したという。

12月14日の「大久野島と毒ガス戦」と題された講演会に参加した。講演は山内正之さん(毒ガス島歴史研究所事務局長・大久野島から平和と環境を考える会代表)で、東京では初めての講演とのこと。地元のことゆえ、広島弁(?)を交えながらの語り口は説得的でリアルに感じられた。関係資料を投影しながら日本軍のガス製造の始まりから戦後の処理のことまで語った。

講演の後、別会場でのパネルなど展示を見た。「731・細菌戦部隊/日本軍の毒ガスと遺棄毒ガス問題/軍用地跡地で発見された人骨問題とは?/原爆・核兵器・原発」と4つのコーナーでパネルと模型が展示されていた。日本が遺した負債のせいで、いまだに苦しんでいる人が国内外に多数いる現実はあまりに重い。あらためて日本の戦争責任・戦後責任を果たさなければ、未来はないと感じた。

■山内正之さんのお話

立ったまま話をする山内正之さん

立ったまま話をする山内正之さん

大久野島は新幹線の三原駅から竹原市へ、そして船で大久野島へ向かいます。広島が近いですが、広島は知られていても大久野島は知られていません。日本の毒ガス兵器製造は東京・新宿の陸軍科学研究所でつくられました。大量に製造する必要があり、関東大震災がありどこか地方でということですが、35箇所ほど候補があり大久野島が選ばれました。それは島で秘密が守りやすい、周りに住宅が少ないなど利点があったからです。

大久野島の毒ガス工場は東京第二陸軍造兵廠忠海製造所として1929年に設置されました。島の工場では24時間・二交代制で生産が行われました。工場ではマスクをして労働するのですが、大変でした。完全防護のスタイルですが当時のことゆえ、継目からガスが入ってくる。気化してじわじわ入ってくる。また、防毒マスクも少なくそれぞれの労働者は兼用で使用して、自分の体に合わない服も使用していたようです。

しばらく働くと体がやられてしまう。時々休憩をして、労働者の体調を医者が診察し、労働者を現場から室内の労働へと移動させます。労働者を交代しながら現場作業させていました。そして医者の判断で労働者も島から追放します。首です。他所に行っても情報が漏れないよう、事前に働く前に仕事内容を他言しない、という契約書を書かせています。

人知れず死んだ労働者もいただろうと思います。工場は敗戦処理で資料を破棄したので、追って調べることはできません。

島では1929年から45年まで約6700人の労働者や動員学徒が働きました。最初は専門の工員を全国から募集しました。41年からは徴用令で補充し、43年には学徒動員を充てました。

島の工場には憲兵がいて監視していたそうです。44年頃からは普通の火薬や風船爆弾の製造をしたそうです。ここの工場で作られた毒ガス兵器が中国大陸で使われたのです。私は社会科の教員でしたが、知りませんでした。教えたこともありませんでした。

そもそも毒ガス兵器は第一次世界大戦で使用されて、おおきな被害者がでました。それで禁止となっていました。例えば日本政府は広島への原爆投下の時は米国に抗議していました。ところが日本軍は上海戦で毒ガスを使用したときに。隠して使用せよと命令し、第三国人(欧米諸国)には被害が出ないように、注意するようにとも指令を出していました。

また、1942年には北担村(河北省北担村毒ガス事件)で地下に逃げ込んだ人々を800人殺害したと言われます。これまで2000回使用して、9万人以上が殺傷されたとも言われます。

敗戦後は東京裁判でも米軍のトーマスという人が中国から証拠を集めてきて証言する予定でしたが、米国が使用しにくくなる、国益に反すると、採用されませんでした。

日本政府も毒ガス戦使用の事実を公表せず、被害者への謝罪もしていません。さらに中国に毒ガス兵器を遺棄してきました。

大久野島とその周辺にも毒ガス兵器が残されていました。最初米軍が来て、その後は英連邦軍の指導のもとテイジンが下請け企業として、作業にあたりました。イペリットガスなどは高知県沖、九州沖へ沈めました。

くしゃみガスなどは埋設処理でした。46、47年と工場の解体と焼却が続きました。この間のテイジンに雇われた人々に影響が出て、病気や自殺、がんで亡くなる人が出てきました。病気は主に気管支炎、肺が詰まる症状でした。それらの人々は原爆症のように無気力になる「ぶらぶら病」のような状態になりました。地元から援護法をつくるように政府に毎年陳情しています。現在でも国内では1300人が毒ガスの後遺症で苦しんでいます。

大久野島でも今だに毒ガスを埋設されたままです。ヒ素を使用しているので漏れ出す可能性もあります。1996年に「毒ガス島歴史研究所」が設立されました。その前に島に国民休暇村ができました。毒ガスのイメージを消したかったんです。88年に地域の人たちが頑張って資料館を作りました。国にも要求しましたが受け入れませんでした。被害を受けた人たち最初は否定的でしたが、自分たちの痕跡を遺したいと思ったのでしょう徐々に協力してくれるようになりました。

日本軍が遺した化学兵器は約70万発だと推定されます。中国の毒ガス被害者の証言集会を広島と竹原で開催し、被爆二世と中国民衆との交流もおこないました。戦争させない、起こさないための活動を続けていきたいです。

(文責:編集部)

なかのゼロの別会場にあったパネル展 なかのゼロの別会場にあったパネル展


上)中国で使用された毒ガス兵器などの分布図
下)日本国内に遺された毒ガス兵器などの地図