鬼と桃太郎を解放しよう!

テレビを見なくなってから大分経つが、さほど不都合は感じない。ラジオをつけっぱなしにしているのでニュースなどは十分だし、不愉快な情報が入ってこないのは健康衛生上好ましい。不愉快なのはテレビを所有していないのに、「携帯を所有していてるなら義務がある」とNHK(委託された会社だが)が受信料を取りに来ることだ。

そんなNHKだが良質なドキュメンタリーを創ったりするのはさすがだな、と思う。たまに見るのが「チコちゃんに叱られる!」だ。素朴な疑問のクイズ番組で回答者の出演タレントたちが答えられず、間違ったりすると、5歳という設定の着ぐるみの少女から、勢いよく「ボーっと生きてんじゃねーよ!」と啖呵を切られるのだ。

その番組のなかで「なぜ桃太郎は桃から生まれた?」(2019年2月1日)という問で、提示された答えが「大人の忖度」であった。「忖度」という言葉でニヤリとしたのは私だけではないだろう。その言葉がちょっと前から流行語となっていて一般化していたため、その表現となったのだろう。もし「モリカケ問題」がなければ「大人の都合」とか「大人の事情」とかの無難な言葉になっていただろう。

内容としては江戸時代の桃太郎の絵本では、桃を食べたおばあさんが若返り、おじいさんも同様となり、その結果として赤ちゃんが生まれて桃太郎となったということであった。明治になって小学校の教科書に掲載するにあたり、都合が悪いということで、桃から生まれたことになった、ということだ。

時代は富国強兵と国威発揚が求められ、小さな日本が大国を打ち負かすという設定が、鬼退治のストーリーにハマったということだ。残念ながら番組では、そこで歴史的な考察については終了してしまったが、いくつか思うことがあった。

期の物語では桃を食べて若返った夫婦の子供が桃太郎となっている

「桃太郎一代記」 江戸期の物語では桃を食べて若返った夫婦の子供が桃太郎となっている

若い頃の話で恐縮だが、左翼の新聞の投稿欄に「桃太郎旗という名称をやめよう」という投書があった(今はのぼり旗というのが一般的なのだが)。鬼退治は帝国主義の侵略であったとして批判していたのだが、友人とそれについて会話をして「鬼という存在は変わらないね」と返されたことを記憶している。たぶん伝統的に悪いイメージの代名詞として定着している、とかなんとか話したような気もするが、その時はそれで終わっていた。

最近出版された『桃太郎は盗人なのか?』(倉持よつば 新日本出版社 2019年)を知った。著者はなんと小学生である。200冊以上の桃太郎本を読み比べ、桃太郎と鬼の伝承を探求した本である。現在の市販されている絵本は再創作となっているため読み比べに、さほど意義があるとも思えないが、それでも確認作業は必要だろうし、なにより調べ尽くす力技に感心した。

この本にも採り上げられているが、桃太郎の物語はそれなりに研究もされていて(柳田國男や石田英一郎など)、また、桃太郎像も芥川龍之介は反転させた物語としての桃太郎を描いている。マイナーではあるが、運動のなかでプロレタリアの旗手として描かれたりもしていた。

■「鬼畜米英」と「日本鬼子」

いっぽう鬼という存在は、古来より畏怖・異端として怖れられ、悪事や不幸な出来事は全て鬼のせいにしてきた。節分での豆撒きも「鬼は外」と唱えるし、子どもの遊びにも「鬼ごっこ」と、鬼が欠かせない。悪の代名詞として使用したりもした。

その典型が戦時中の「鬼畜米英」である。川村湊によれば誰が使い出したのか不明だそうだが(『戦争の谺』川村湊 白水社 2015年)、当初は米国に対する敵愾心は薄かったので、実態としては米軍の日本本土の空襲が始まってから符号したのではないか、とも思う。日本各地に焼夷弾や爆撃をおこない非戦闘員を殺傷するのはまさに「鬼」だったから。しかし、同時に中国に侵略した日本は、民衆から「日本鬼子(リーベンクイズ)」「東洋鬼」と呼ばれていたのである。日本軍は中国を占領、略奪、暴行、虐殺の限りを尽くした。まことに「鬼」の所業である。

鬼という言葉で相手を否定し、誹謗することは容易い、日本では異端・異物の代名詞として使用されてきた。「ヤマト国家に属する側の人びとは、それ以外の人びとを「鬼」のような者と考えていたでしょうし、逆に征服された側の人びとはヤマトの勢力を「鬼」のような者と考えていた」(『鬼がつくった国・日本』小松和彦・内藤正敏 光文社 1991年)実は鬼という言葉は自分のことだったのだ。

鬼の正体については『桃太郎は盗人なのか?』のなかで、「心の中にいて、(略)その鬼がいるから成長する」とまとめられている。鬼の姿は角が生えていて怖いが、外見で判断するなということも教えてくれている。そして差別や排除を克服する論理としても語られている。これまでの歴史的な鬼の表象は恐ろしく。怖いものだったが、それこそ自らの心を投影したものなのだ。

明治期以後の桃太郎は、結局のところ英雄譚やヒーロー誕生に見立て、鋳型にはめた形になったのではないかと思われる。昔ばなしや御伽噺として伝承された物語に対して、倫理感や事の良し悪しの判断をすべきではないかとも思うが、日本の国家形成・日本軍国主義に寄り添う説話の形成ではなかったか。それが民衆の立身出世・成功願望と結びついたと見るのが妥当な気がする。

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桃太郎のイメージはそのような日本の帝国主義の進長と歩調をあわせて時代の寵児として理想化され、日の丸の鉢巻をした帝国主義の成長戦略に寄り添うキャラを要請され、民衆に刷り込まれていったのである。たとえば戦争末期に製作された『桃太郎海の神兵』(1945年)というアニメは子供の頃に手塚治虫が大阪の映画館で観て感動し、アニメ作りを志したという逸話も伝えられている(ちなみに日本最初の長編アニメは2年前に製作された『桃太郎の海鷲』で、これも桃太郎が隊長の戦意高揚もの)。余談だが、同時期に中国でも対抗的に日本を鬼に見立てた牛魔王が登場する長編アニメ「西遊記・鉄扇公主(てっせんこうしゅ)の巻」がつくられて日本でも公開されて、たいそう好評だったという(手塚治虫と戦争HPより https://tezukaosamu.net/jp/war/entry/18.html

映画「桃太郎 海の神兵」より
映画「桃太郎 海の神兵」より

時期は不明だが(1944年位か?)、「敵国アメリカ」の大統領であるルーズベルトに桃太郎が乗っかり、征伐する場面を表現したねぶた

時期は不明だが(1944年位か?)、「敵国アメリカ」の大統領であるルーズベルトに桃太郎が乗っかり、征伐する場面を表現したねぶた(青森まちかど歴史の庵「奏海(かなみ)」の公式ホームページより)


戦前の子供紙芝居「桃太郎」。

戦前の子供紙芝居「桃太郎」。国民精神総動員とある(名古屋日光社)

そもそもこの桃太郎の物語、現在まで流布されている絵本についていえば、桃太郎が一老夫婦の家から出ているのに、日の丸の幟旗をなびかせていくのは、あまりに事大的ではないだろうか。定型とされている話自体も巌谷小波の話(『日本昔噺』博文館 1896年)が元になっている傾向がある(『桃太郎の運命』鳥越信 NHKブックス 1983年)という。囚われすぎてはいないだろうか、戦後の桃太郎像も大きく変化したとは言えない。

■怠け者桃太郎

実は日本各地の桃太郎的な民話・説話には、鬼の牙を取ってきたが、それが鬼となって周囲を飛ばしてしまったり、鬼に逆襲されて逃げ惑ったり、とヘンな話(?)が少なくない(『新・桃太郎の誕生』野村純一 吉川弘文館 2000年)。

桃太郎像についても、鬼ヶ島になかなか出掛けなかったり、仕事を誘われても理由をつけて怠けている話が伝承されている(『桃太郎はニートだった!』石井正己 講談社 2008年)。せっかく日本各地の民話にいろんな桃太郎像が描かれているのだから、それらを掘り起こしたり、再創造してはどうだろうか。いいかげん桃太郎から立身出世の模範的少年の任務を解き放ってはどうだろう。暴力で宝を奪うのではなく、知恵をつくして探し当てたり、失敗しても努力を重ねて、立ち向かってゆく姿を描いてもいい。最初から力のあるヒーローではなく、駄目な子どもを見せてほしい。

また、鬼については桃太郎ほど絵本になっていないようだ。良い鬼として浜田広介の『泣いた赤鬼』が有名だが、パオロ マッツァリーノが『みんなの道徳解体新書』 (ちくまプリマー新書 2016年)で、いうように「赤鬼は村人にすべてを打ち明けるべき」で「村を去るか、親友の青鬼を探して連れ戻すか」どちらかでなければ道徳的とはいえないだろう(物語に道徳を要求するのも野暮ではあるが…)。これまでの悪いイメージを払拭しようという、狙いもあるのか、反動なのか?

せっかく、これまで鬼研究の成果があるのに、創作には反映しているものは少ない。マンガなのだが永井豪の「鬼」は、人間によってつくられて、差別迫害され反逆する鬼の物語だ。このように、別に良い鬼でなくてもいいのだと思う。普通の鬼(?―存在しないのだが!)を観てみたい。人間と鬼が入れ替わったり、人間と同様なもの、あるいは神や異界の存在として描くのもいい。これも桃太郎と同様なのだが多様性を確認できるような、いろんな鬼がいていいのだ。多様性が豊かさを産むのではないか。たまには「ボーっと生きててもいい!?」
(本田一美)