国策の戦争アニメ『桃太郎 海の神兵』を分析する
日本初の長編アニメーション映画である『桃太郎 海の神兵』(1945年)は瀬尾光世(せおみつよ 1911-2010)が監督した作品で、海軍省がスポンサーとなり、それまで制作上の問題や予算、スタッフ確保などが解決され、その結果として技術的な進歩・向上がはかられたという。 (『新版アニメーション学入門』津堅信之 平凡社 2017年)
以下は松竹の作品情報を紹介する。
STORY 富士山のふもとにある動物たちが住む村に海軍に出征していた猿、犬、雉、熊が休暇で帰ってくる。思い思いに休暇を楽しむ彼らのうち、猿は弟を含む近所の子供たちから海軍の仕事について聞かれると航空兵であると語るがそれは嘘で実際は猿と犬、熊は極秘で編成された海軍陸戦隊落下傘部隊であった。やがて休暇が終わり彼らは海軍設営隊と現地民が協力して建設した飛行場に赴き現地民に日本語を教える傍ら桃太郎隊長と共に訓練に明け暮れる。やがてかつて平和な島だったが鬼のだまし討ちにより征服された『鬼ヶ島』への空挺作戦が発動される。
https://www.shochiku.co.jp/cinema/database/02392/
この作品は空襲で焼け野原になった大阪の街で、少年時代の手塚治虫が動員先の工場をさぼって見たというが、どの程度の人が戦争末期の状況の日本で視聴されたのかは判然としない。戦後は存在が確認されなかったが1984年に、松竹大船の倉庫でネガが発掘されて一般公開された。その3年後にはテレビでも放送された。
手塚少年は一説には、この作品で「感涙感激し、アニメ作りを志すきっかけとなった」という話もあるが、具体的に文章として確認できるものは、戦時中の4月12日に記された日記である。
「まず第一に感じたことは、この映画が文化映画的要素を多分に取り入れて、戦争物とは言いながら、実に平和な形式をとっている事である。熊が小鳥を籠から出して餌をやり、或(ある)いはてるてる坊主や風鈴が風に揺られている所など、あくどい面白さの合間合間に挟まれて何か観衆をホッとさせるものがあった。」(講談社版手塚治虫漫画全集『手塚治虫エッセイ集 6』「思い出の日記──昭和二十年──」)と冷静に観察しているのだ。感激したことは間違いないだろうが、映画の中の影絵に感心したり、猿のコーラスを気に入って愉しんだことが書かれていて芸術映画としても愉しんだのだろう。
https://tezukaosamu.net/jp/war/entry/39.html
『桃太郎 海の神兵』(以下『海の神兵』)は日本のアニメーション史のなかで、注目される作品でありながらも、国策映画として制作されたという出自もあり、同じ戦時中に制作された正岡憲三の『くもとちゅうりっぷ』(1943)というアニメが評価されてきた。
ちなみに瀬尾光世は正岡憲三の弟子であり、また『海の神兵』の影絵のシーンは正岡憲三が担当している。
そのような複雑な面をもつ『海の神兵』を複眼的にあきらかにした本が<戦争と日本アニメ―『桃太郎 海の神兵』とは何だったのか> 佐野明子・ 堀ひかり編著(青弓社 2022年)である。
これまでの作品評価では技術的問題、技法や撮影などについては評価が高かったが、内容については「桃太郎」のストーリーを借用したプロパガンダという意見が多いようだ。
この本のなかでも「プロパガンダ」か「平和」かという二項対立を指摘して、「領域横断的」な側面があると評価している論考がある。また、この作品について日本アニメの連続性と非連続性を説く議論もある。( 第6章 『桃太郎 海の神兵』の実験と宣伝)
映画を考えるうえで重要なのは、音や映像が一体となった時間を占有するメディアだということだ。他の媒体はなかなかその体験はあり得ない。そこでは主題を形成する要素は多様なものとなり、また、さまざまな構成をもつことになり、そのためのシーンも色々なものがつくられる。そのなかでは印象づけるものも複雑化する。比較されるし激しいシーンの合間の静寂なシーンなどが注目されたりする。その場合は個別のシーンを取り出して批評することは可能なのだが、果たしてそれは作品評価としての位置としてはどうなんだろう、という気がする。個別の部分的評価は成立しうるが、全体の評価として視点は必要だということだ。
いっぽうで作品そのものについてはやや離れて、映画が映し出すものとその効果を探るものがある。今日普通に見られる情報化を示すものが戦時下にあったという論拠を出しているのが面白い(第2章 戦時下のユビキタス的情報空間)。この項は大塚英志が執筆しているが、彼はこの観点でいくつか本を出しているので深掘りするならばチェックしてみよう。
1960年前後に生まれた「メディアミックス」という言葉が、実は戦時中の日本のプロパガンダを実践的に荷なってきた人たちからも提唱されていたということで、多メディア展開の考え方が戦時下に理論化されていて、さらに演出されるのは現代日本のメディアミックスの「ユビキタス性」(どこにでもある)であるという。
具体的には戦時下で「翼賛一家」という大政翼賛会宣伝部による政治宣伝のキャラクターがあるという(詳細には『大政翼賛会のメディアミックス』平凡社、などがある)。
『海の神兵』では作品自体は手塚治虫が私家版で二次展開をしたが、それ以外の部分ではキャラ化された「桃太郎」に着目している。
「桃太郎」の物語は明治以降は富国強兵のシンボルとして用いられている。さらに突っ込んで1942年から45年まで新聞広告で多くの「桃太郎」が出稿されており、宝塚歌劇による「桃太郎」や中山晋平の「桃太郎音頭」(ビクター)や朗読ドラマが発売されたという。
さらには『海の神兵』の「桃太郎」以外にも、映画のなかでは桃太郎の日本軍と鬼扮する英軍(米英か?)の降伏要求の会談が、英軍と山下泰文将軍の会談の引用であったり、日本軍の記録映画の引用だったり引用のイメージのユビキタスを指摘している。
「桃太郎」というキャラクターは分かり易いし、見た目としてもはっきりしているが、日本軍の戦闘・成果のイメージの内面化によるユビキタスせのというところは新しい視点だろう。なお、「桃太郎」についてはこのサイトでも取り上げたことがあるので参照してほしい。→鬼と桃太郎を解放しよう!
「文化映画」と「娯楽映画」の要素を融合したという瀬尾監督の意気込みとその試みの成果の検討がある(第3章 『桃太郎 海の神兵』の異種混交性)。これについては冒頭に紹介した手塚治虫の感想に文化的映画という単語が出てきており、それが受け止められ、また猿のコーラス部分などに娯楽的要素を感じたようで、まさに日記が裏書きしている。ただ、それが高次の段階なのかどうかは微妙なところだろう。この本でもディズニー映画の『ファンタジア』(1940)の影響を指摘し、芸術的側面としてのシーンの比較をしている。
以上、多彩な論考が収められているので、ぜひ本書に当たってほしい。それにしても、アニメ映画の『海の神兵』で「桃太郎」がに託したものが、まったくの無効になっているとは思われないのが昨今の状況だ。そのことを留意しつつ、ある種の「裏切り」を持つものをアニメとして創作してほしいと願っている。
(古いアニメの愛好家)