略奪文化財の原状回復を求める

ラジオを聞いていて、植民地から略奪された美術品を返却するニュースを流していた。ネットで確認してみると、朝日新聞で以下の記事を見つけた。

仏の略奪美術品、ベナンに返却へ 植民地支配の「戦利品」、像・玉座など26点(朝日新聞デジタル 2021年10月29日)
https://digital.asahi.com/articles/DA3S15093264.html

記事によれば、フランスのマクロン大統領が植民地だった西アフリカのベナンから129年前に戦利品として略奪した26点の美術品を来月に返還するという。そこにはマクロンのアフリカとの関係改善の狙いがあるとも。また美術館の作品などでも由来や説明を意図的に隠しているとの指摘もあった。そして総じて文化品の返還については「欧州の美術館や博物館は過去の他国支配と少なからず結びついており、ナポレオンは支配下のイタリアから絵画や彫刻を収奪。絵画の半数はルーブルなど仏の美術館に残るとされる。エジプトは、大英博物館が所蔵する象形文字の石碑ロゼッタストーンの返還を求めているが、応じていない」と、現状を紹介している。

フランス植民地だった西アフリカのベナンへ返還される美術品の記事(朝日デジタルより)

ここで日本でも似たような問題はあると想起した。岩波ブックレットの『文化財返還問題を考える』(五十嵐彰 岩波書店 2019年)では、日本の文化財返還は戦後処理としてはじめられたことを伝えている。

GHQの司令により当時の入手した経緯が合法的かどうかは問わずに、1937年以降に占領地において入手されたものは全て「略奪された財産」とみなされ、それによりイギリスや中国への返還がなされたという。ただし植民地朝鮮における期間は除外されていた。

1949年には中華民国の作成した『中国戦時文物損失数量及估価総目』という略奪品リストが翻訳され、1951年に中国へ報告書と資料(山東省の出土資料)が返還されたようだが、詳細が不明となっている。そして当時は日中国交正常化前だったので、山東省の資料が台湾へと移行したのである。

いっぽう日本の植民地であった「朝鮮」については、まったく対応されなかった。略奪された文化財の目録を1945年12月に朝鮮半島の米軍政庁に提出したのが、「震檀学会」という民間の歴史研究団体で朝鮮半島由来の文化財の返還についての最初の試みだという。ようやく1965年の日韓基本条約と同時に日韓文化協定が調印・批准され432点が返還された。

しかし、民間所有の文化財については返還されず、日本政府も推奨・勧告することはなかった。1970年代から日韓連帯の市民運動から略奪された朝鮮半島の文化財資料の翻訳する動きがあったが、代表的学会では反応は鈍かった。

さて日韓の文化財の返還についてはどのようなものがあるのか具体的にみておこう。たとえば五十嵐氏の前掲書では、渤海国の「石製龍頭」は、当時の満州国から出土し、東京帝国大学に運ばれ、そのまま東京大学の資料となっている。他、主なものとして以下列記する。

小倉コレクション は朝鮮半島で電気会社を設立し、多方面の事物を収集。最終的には東京国立博物館に小倉コレクションを寄贈した。2014年には韓国の市民団体が国立文化財機構に対して東京裁判所に提訴したが該当文化財所有者ではないと、棄却された。

利川五重石塔 は1910年代に朝鮮から日本へ移送された高さ6.48mの五重石塔で、朝鮮の京畿道利川(イチョン)市の利川郷校付近の丘に立っていたとされる双塔のうちの1基が、植民地政府であった朝鮮総督府から、私設博物館の大倉集古館に下付された。現在は東京虎ノ門ホテル・オークラの前にある大倉集古館の敷地内に置かれている。2011年には利川市議会が環収の決議がなされ、2015年には韓国の国会でも決議がなされたが、2021年現在も進展してない。

寺内文庫 初代朝鮮総督になった寺内正毅は図書館をつくり中国・朝鮮関連文書なども収集していた。後に山口女子大学(現、山口県立大学)に寄贈された。1996年に韓国の慶南大学に返還されたが全体に一割に満たない数だという(荒井信一『コロニアリズムと文化財』岩波新書 2012年)

以上、手元にある書籍のなかで継続中のものを紹介したが、ウィキペディアにも「朝鮮半島から流出した文化財の返還問題」として項目があるので参照願いたい。
https://ja.wikipedia.org/

また、韓国・朝鮮の研究者などを中心として「韓国・朝鮮文化財返還問題連絡会議」が活動を続けている。
http://www.asahi-net.or.jp/~vi6k-mrmt/culture/korea/index.html

さて、日本の文化財返還については、GHQの司令によりはじまったというが、1937年以降(正確には「日華事変」の始まった7月7日から)の占領地で取得された財産を対象としていて、それ以前の、たとえば日本軍の兵士を護衛につけての学術調査や文化財の採集などは除外されることになる。当時の力関係が影響した取得なども漏れてしまう。

文化財を返還する以前の問題として五十嵐氏は、「文化財は、どのようにして今ある場所にもたらされたのか、誰にでも分かるように基礎情報に加えて由来情報をも併記する。これが二一世紀の博物館や美術館などの文化財所蔵組織に対する社会的要請であり、こうした要請にどれだけ誠実に答えているかとうことがその組織の倫理(エシカル)度を測る基準にまります。展示品が現在ある場所にもたらされた経緯を、一般の観覧者にも分かるように展示することによって返還すべき資料とそうでない資料の区別についても、社会的な合意を形成することができるようになります」と語る。「なぜ、これが、ここにあるのか」「誰が、いつ、どのようにして、ここに持ち込んだのか」を繰り返し問いを発しなければならないとも…。(五十嵐彰 前掲書)

文化財の設置について「なぜ、これが、ここにあるのか」を明らかにすることにより、返還されるべきか、ここにあってもいいのかの議論が始まるのだろう。返還という言葉についても、受ける側では「帰還」であり、それを総称する言葉として「原状回復」が適切だとしている。(五十嵐彰 前掲書)

「なぜ、これが、ここにあるのか」を説明しない例としては以下の事案を紹介しておこう。

東京九段の靖国神社の大鳥居の前に設置された「狛犬」は、旧日本軍が日清戦争期に中国から略奪した「石獅子」だとして、中国の団体が同神社に返還を求めている。

靖国神社の「狛犬」、実は中国から略奪したものだった!(recordchina 2021年2月23日)
https://www.recordchina.co.jp/b872389-s25-c100-d0052.html

狛犬(Record Chinaより)

狛犬(Record Chinaより)


また、「なぜ、大阪城に中国の明朝時代の国宝級のこま犬が置かれているのか」と問いかけて、歴史を正確に伝える動きもある。「大阪城狛犬会」ではこま犬の由来を知らせるべきとして、「こま犬の正しい由来と日中不再戦の決意が明記された説明板設置を求める署名」を実施している。

盧溝橋事件の1937年に日本軍は「12月13日に当時の中国の首都である南京に侵攻、大虐殺を引き起こします。その途中、7月29~30日には天津を爆撃占領し、その時、天津市庁舎前のこま犬を略奪してきました。こま犬は、翌1938年に兵庫県西宮市の西宮球場および外苑で開かれた「支那事変聖戦博覧会」で「勝利の戦利品」として展示され戦意高揚に利用され」たとしている。

その後は大阪の市民が複製を健立し署名活動をおこし、それに応えた中国は「友好の証」として大阪市に寄贈されたのだが、既存の説明板にはそのことが書かれていない。なぜ中国の文化遺産が大阪に運ばれたのかの経緯が書かれていない。
http://oosakajokomainu.net/index.html

以上、より詳しくは「ある狛犬の叫び -文化財まで奪う戦争-」(東海林 次男『東京の歴史教育』第45号、東京都歴史教育者協議会 2016年)。

ニュースでは外国の事柄として報道されるが、日本にも略奪品のあることをメディアはしっかりと伝えてほしいし、それを伝えることで信頼されるはずなのだ。
(本田一美)

大阪城のこま犬(「大阪城のこま犬」大阪城狛犬会HPより)

大阪城のこま犬(「大阪城のこま犬」大阪城狛犬会HPより)