沖縄戦の住民被害は天皇制国家が元凶であった

2022沖縄シンポジウムチラシ

「沖縄とともに―慰霊の日を迎えて」と題して2022年6月25日にZOOMによるオンラインによる沖縄シンポジウムが開かれた。東京弁護士会人権擁護委員会の藤川元部会長の司会で、東京弁護士会の井伊和彦会長の開会あいさつの後に、第1部「沖縄戦の記憶の教訓」と題して、石原昌家氏(沖縄国際大学名誉教授)の講演と神谷延治氏(東京弁護士会人権擁護委員会)と対談、第2部が「沖縄と抑止力」として柳澤協二氏(国際地政学研究所理事長)の講演と藤川元氏の対談がおこなわれた。 主催は東京弁護士会。

第1部 沖縄戦の記憶と教訓
石原昌家(沖縄国際大学名誉教授)
【証言・記録による「非国民」近衛文麿元首相と、「非国民」発言の島田顕沖縄県知事】

はじめにー家永教科書裁判が教える沖縄戦の記憶をめぐる問題

東京弁護士会のみなさまのまえでは、1991年10月21日、家永教科書裁判の沖縄戦に関する部分について控訴審での証言を終えて以来ですので、31年ぶりです。家永三郎教授が、1983年に高校日本史の改訂検定のとき、沖縄戦において住民が日本軍のために殺された人も少なくなかったと、付け加えたら、国は、日本軍に殺害された人より、集団自決(殉国死)した人の数が多いのだから、集団自決を先に書くように、事実上の命令を下したのです。家永教授は抵抗したが、国に最終通告されて、やむをえず、集団自決に追いやられたり、と書かされ、改訂検定教科書が合格したが、ただちに、それを書かされたということで違憲訴訟を起こした裁判でした。

その控訴審で原告側の証人として、証言をした15年後に、私は沖縄靖国神社合祀取消裁判の原告側の専門家証人を依頼されました。1952年4月30日に制定された、戦前の軍人恩給法にかわる戦傷病者戦没者遺族等援護法についてしらべる機会がうまれました。それで、いまでは、家永教授に国が、日本軍の住民殺害の記述をみとめたうえで、「集団自決」を書かせたのは、なんのこともない、援護法を沖縄住民へ適用を拡大した1958年から 日本政府が沖縄戦体験を捏造してきたことを、書かせたのだということだ、と、最近になって、気が付きました。被害を受けた沖縄住民に軍人対象の援護法の適用を拡大していった、根本的な理由を理解していなかったら、家永教科書裁判の沖縄戦に関する部分について、私は真に理解したとは言えなかったと、いま、思っているところです。

この話を続けると何時間もかかりますので、簡潔に申し上げます。

日本政府は、1952年3月の段階で沖縄戦の状況調査をしていて、日本軍があまりにも残虐なことを沖縄住民に対して行っていたことを知りました。日本軍が住民を直接殺害したり、死に追いやるという間接殺害しているのを、その後の調査でも、知っていったのです。そこで思いついたのが、被害住民にたいして、援護法を適用して、軍人同様に扱うことにしたのです。

日本政府は、沖縄戦で住民がどのような戦争体験していったかを調べつくして、戦闘参加者概況表として20種類のケースに分けました。その20のケースのなかに「住民虐殺」と「集団自決」という項目が、「壕の提供」(実際は壕追い出しであった)などと一緒にふくまれているのです。つまり、日本軍に虐殺されたり、絶対に投降は許さず死に追い込まれて集団死したりしたケースも「集団自決」したものとして、日本軍の戦闘に積極的に協力した「戦闘参加者」という法的身分を与え、軍人同様に準軍属として援護法を適用していきました。そして遺族には、遺族給与金という名称の遺族年金が支給され、戦争死没者は国のため天皇のために死んだということで、靖国神社に合祀され、非国民・スパイの汚名を着せられた住民が名誉回復された形にしていったのです。しかも、それは遺家族が、軍人同様に戦闘参加者でしたと主張するように「戦闘参加者についての申立書」を申請させるという、実に堪えがた屈辱を与えるという形式をとっているのです。

しかしながら、今日までその屈辱を屈辱と受け止めないように、「援護法社会の沖縄」では、被害住民やメディア全体が国家に絡めとられている状態にあります。沖縄社会内部にも真実を語らさない状態があるのです。

1984年、家永先生が国家に敢然と立ち向かって、沖縄戦裁判を起こさなかったら、日本政府が沖縄戦体験を捏造しているからくりを、解明することはできませんでした。

私は、家永先生が他界されたとき、沖縄地元の新聞社に追悼文を依頼されましたが、偉大な「小さな巨人」家永先生が、沖縄戦体験の研究を深化させてくださった、沖縄の恩人だということを書きました。以上の点について、詳しくは、2022年2月にインパクト出版会から出版した『国家に捏造される沖縄戦体験ー準軍属扱いされた0歳児・靖国神社へ合祀』を、お読み頂けるとありがたいです。

以上、沖縄戦体験の記憶が、戦後77年の今日、いまだに戦争をおこした日本国家に、捏造されているうえに、沖縄戦の研究者の間でも沖縄戦体験の事実の認識が共有されていない面についても、短い時間ですが、ポイントを絞って話をすすめてまいります。

1、沖縄戦で記憶すべき最も重要なことがら

いま、ウクライナのゼレンスキー大統領が、テレビでくり返している核兵器超大国ロシアへの徹底抗戦という叫びは、77年前、降伏せずに住民を巻き込んで徹底抗戦した沖縄戦のすえ、広島長崎への原爆へ投下をうけて、ようやく日本が連合軍へ降伏した状況と二重写しに見えてきます。

(1)陸海軍の統帥権・最高指揮権は天皇に 77年前の沖縄戦で、いま、もっとも問題にすべきことは、なにかを 資料を紹介しながら、新たなに視野を広げて気が付いたこと指摘していきます。

まず、1944年3月22日に、天皇制国家の防衛のため、北緯30度線以南のトカラ、奄美、沖縄県域に、第三十二軍が創設されました。その軍隊は、帝国日本国家の天皇の軍隊、皇軍です。最高指揮官は、明治憲法で定められた陸軍、海軍の統帥権という最高指揮権をもつ、天皇です。ですから、天皇の軍隊、皇軍と呼んでいたのです。

今日の講演では、とくにその点を強調しておきます。

木を見て森を見ず、というたとえがありますが、沖縄戦における森は、天皇を頂点とする天皇制国家だということを強く意識しないといけないです。その森の中の木である沖縄の日本軍・32軍が、天皇制国家を守るという一点で、住民を巻き添えにして、住民を盾にした、持久戦をとったので、軍人よりも多くの住民が犠牲になった、日米最後の地上戦闘を展開したのだ、ということを、再確認しておきたいと思います。

その第32軍・日本軍の作戦は、沖縄住民を間接的大虐殺した作戦だったのです。牛島満 32軍司令官は、沖縄住民の間接的大虐殺者ですが、牛島司令官にそれを命じたのは、だれかということは、地上戦闘の作戦をたてた高級参謀、八原博道の手記『沖縄決戦』(1972年)にはっきりと、天皇の命令だということを書いています。

(2)牛島軍司令官の訓示=住民被害の元凶(1)

沖縄守備軍・第32軍の二代目司令官の牛島満中将は、着任して三週間ほどたった1944年、昭和19年8月31日に全軍に訓示しています。あらためて、一字一句、文字の意味を調べたら、こんなことを訓示していたことを確認しました。

訓示の冒頭で、「恭しく、天皇からの勅」(注:勅とは天皇の仰せ、天子の命令、天子とは天皇のこと)、すなわち、命令で、天皇が治める国、「皇国の興廃これ一戦にあり」という意味で、南西の島々に配備している軍でもって、この地が敵軍との決戦 会戦場になるので、この敵軍に完全に勝利することを使命として、前任者からこの重責を引き継いだという意味のことを述べ、第一から第七までの訓示をしています。それらのうち、第五「現地自活に徹すべし」、「一木一草戦力化すべし」、第六「地方官民をして喜んで軍の作戦に寄与し 進んで郷土を防衛する如く指導すべし」と、軍と官民、つまり住民が軍と共に戦うための、戦場動員することを掲げています。したがって、軍事機密を官民に知られてしまうので、第七 「防諜に厳に注意すべし」を最後に、「軍機を語るな」という軍官あげての方針をかかげています。

(3)軍官民共生共死の一体化=住民被害の元凶(2)

牛島軍司令官の方針は、住民の根こそぎ動員であり、それで最高の軍事機密である陣地構築にも狩り出されたうえに、軍民同居・雑居の形となったので、軍機保護法で定めていた部隊の編制や動向など信用できない住民に知られてしまいました。つまり、軍人以外の沖縄の人たちが軍事機密を軍人同様に知ってしまったので、1944年、昭和19年11月18日に、極秘文書として 32 軍首里軍司令部は「報道宣伝防諜等に関する県民指導要綱」を作成し、軍も官も民も共に生き、共に死ぬように仕向ける、「軍官民共生共死の一体化」を具現化するという恐るべき方針を、県民指導の第一方針にかかげ、全軍に発しました。この方針こそが、沖縄住民が日本軍に直接、間接に殺害されていった元凶となる方針だったのです。当時の官選知事としては、これほど重い任務はないので、それが原因かはわかりませんが、東京出張した沖縄県知事は、職場放棄する形で沖縄に戻ってきませんでした。

(4)島田叡官選知事の戦時行政

死地の沖縄に赴任させられたのが兵庫県出身の島田顕官選知事でした。最初の大仕事が地上戦目前の住民保護が最大の任務でした。沖縄本島の中南部が米軍との激戦場になるのは十分予想できたので、食糧がないと知りつつも、沖縄本島北部へ住民を疎開・避難させざるを得なかったのです。米軍上陸ひとつきほど前に北部疎開を戦時行政として着手したのが2月10日のことで、ただちに食糧確保のために、制海権、制空権が米軍の下にあ
る中を、台湾へ出張して、交渉の末、台湾米を入手してきました。しかし、日本軍部隊に半分は横取りされ、住民の手に渡ったのは、わずかだったようです。したがって、北部避難住民は食糧難にあえぐ事になり、地上戦に突入後はよりいっそう食糧をめぐって避難住民は日本兵や地元住民との間でも不幸な事態が発生しました。

しかし、米軍の無差別じゅうたん撃下におかれていたら、どれほど多数の住民が残虐に殺されていたか、想像することは容易に可能ですので、北部疎開の決定は究極の選択だったということになります。

(5)近衛上奏を天皇が拒否=住民被害の元凶(3)/「非国民」発言の近衛文麿元首相
【沖縄戦突入直前の近衛上奏文-天皇が降伏進言を受け入れていたら、沖縄戦も原爆投下もなかったであろう】

最期の官選知事となった島田顕沖縄県知事が、沖縄へ着任して半月後、近衛文麿(あやまろ)元首相が、昭和天皇に拝謁し、上奏・天皇に意見、情勢を、重大な進言をしました。1945年(昭和20年)2月14日のことです。要点だけ紹介します。これまで歴史家にもらったコピーを所有していたが、昨年、琉球新報連載にあたり、『木戸幸一関係文書』(1966 年、東大出版会)を購入したのでそれにもとづき、カタカナをひらがなに、読みやすく、引用しています。

「敗戦は遺憾ながらもはや必至なりと存知候・・・国体護持の建前より最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴ふておこることあるへき共産革命に御座候・・・国体護持の立場よりすれば、一日も速やかに戦争終結の方途を講ずべきものなりと確信仕り候・・」

それに対して御下問(昭和天皇):もう一度戦果を挙げてからでないと中々難しいとおもふ。(御答)そう云ふ戦果が挙がれば誠に結構と思はれますが、そう云う時期が御座いましょうか。之も近き将来ならざるべからず。半年、一年先では役に立つまいと思います。」(読みやすくなおしました)。

3年前、2019年8月20日に新聞が報じた初代宮内庁田島道治長官による昭和天皇拝謁記によると、1952年3月14日、天皇は「私は実は無条件降伏は矢張りいやで、どこかいい機会を見て早く平和に持っていきたいと念願し、それには一寸こちらが勝つたような時に其時を見付けたいという念もあった」と、述懐しています。

この近衛の意見具申を天皇が聞き入れて、戦争終結交渉を開始していたら、東京大空襲、沖縄戦、広島長崎の原爆投下はなかった可能性が高いと、私は専門家でなくてもかんがえられます。

この近衛上奏文での天皇と近衛の問答は、拝謁記が裏付けになっているいま、沖縄はもとより日本全国で大問題視すべきです。

(6)戦時から戦場、決戦行政へ=大本営発表的・建前の県諭告

【最後の官選知事島田叡の映画/「生きろ」、「島守の塔」の上映に関連して】

いま、島田叡知事の映画が新たに製作され、私も証言者として登場している「生きろ」という TBS の佐古忠彦監督のドキュメント映画と共に、偶然にふたつの映画が全国で上映されることになっているので、それに関することも資料に基づいて話していきます。

米軍は、1945年3月23日、上陸前大空襲を沖縄本島に開始して、24日に艦砲射撃を加え始めて、まずは慶良間諸島に上陸、つづいて4月1日、沖縄本島中部西海岸に約54万人という大軍を後方に控えて、上陸開始しました。日本軍は何ら補給もできない約10万人の兵力でした。以後、沖縄本島は中部で分断され、沖縄県庁も戦場行政に移行して、モグラのような壕生活を強いられます。

島田知事が着任二か月後、壕の中から県民へさとし言い聞かせるという意味の諭告(ゆこく)というのを発した文書を、私たちは読むことができます。それは、やはり首里城の地下壕内で印刷し発行した『沖縄新報』という戦闘中の新聞がかろうじて残っているので、昭和二十年四月八日付に載っている、沖縄県諭告第二号ですが、それをちょっと紹介します。(詳細は、2005 年『具志川市史』第五巻戦争編、参照されたし)

一、皇軍の勝利を固く信ぜよ、とか、一、軍の布告を身を以て実行せよ、竹槍の訓練をせよ、婦人の斬り込み隊や義勇隊の活動は全国に沖縄県民の名をあげている、十二月八日を思い出せ、日本が敗けるわけはない、などと、大本営発表のようなことが書いてあります。さらに、首里城から二キロ北方では日米最後の大激戦中、四月二十七日に、地下壕内で最後の市町村会議が開かれ、そのときの市町村長会の指示事項に、六、村へ侵入し場合一人残らず戦へるやう 竹やりや かま などを準備し その訓練を行って自衛抵抗に抜
かりない 構えをとらう など、と、書かれています。まだまだたくさん書かれています。

しかし、鉄の暴風と形容されている、壕の外では、壕から壕へ逃げまどいながら、つぎつぎ敵弾に倒れていく状況のなかだったので、沖縄戦の聞き取り調査してきたものには、この新聞に載っている記事内容は、日本軍の建前にそって、まったく、常軌を逸した、空疎な、幼稚そのもの、奇想天外で実行不能なことばをただただ書き連ねいているとしか言いようのない、シロモノであり、その文字ずらだけの判断で、島田知事の戦場行政を批判
するのは滑稽としか言いようがありません。

その後、島田知事率いる沖縄県庁は、戦場行政から決戦行政に移行して、住民に対して後方指導挺身隊・志気高揚班という任務を遂行することになったが、実際は証言によると、戦闘下を逃げまどいながら戦死していったり、具志頭の洞窟で、殺気立った日本軍部隊からスパイの嫌疑をかけられ、所持していた軍隊の幹部などの名刺をみせ、難を逃れたと、中頭地方所長だった伊芸徳一さんが証言しているほど、官民を戦場動員すると同時に
スパイ嫌疑もかけられるという状況だったようです。

沖縄の官選知事は、県民を軍と共死することを極秘に指導することを、軍司令官に命じられていたのですが、住民を軍との共死を指導すべき島田沖縄県官選知事は、県庁壕と称される糸満・伊敷の轟の壕になだれ込んできた日本兵らの一行に壕を明け渡せとか、傍若無人なふるまいを目の当たりにしました。この日本兵らは、この壕内で幼児の殺害、食糧強奪をしています。

  • 島田知事の非国民発言→生きろ

それからまもなく、以下、証言を紹介します。

「長官(知事は地方長官と称されていた)が軍と行動をともにするために轟の壕を出て行かれるとき。私は川下の上の方へ移動しておりました。水汲みに出入口近くに来たとき長官が鉄兜を肩にかけて出ていらっしゃったのです。私の目の前でしたので、『長官殿、どちらへですか?』と尋ねると、『僕たちは、これから軍の壕に行く、お前たち女、子どもに(米軍は)どうもしないから、最後は(友)軍と行動をともにするんじゃないぞ、最後は手をあげて出るんだぞ』と私に小声で言ったのです。

長官と別れてから、私はくやしくて、くやしくてたまりませんでした。死ぬときはみんな一緒じゃ、最後は靖国神社に行くんだ、お国のために死ぬんだと、知事は直接おっしゃってはいないが、私は県庁でつねづねこのように教えられてきたのに、長官はなさけないと思いました。いままでお国のために死ねとおっしゃっていたのに、いま長官は私に捕虜になれとおっしゃるのですか、と言ったつもりですが、長官はそれをお聞きになったかどうかは分かりません。長官はそれだけ言って、後ろも振り返らないで出て行かれました。」

「小声で言ったのです」という証言は、深い意味があったと思います。

まさに最後の最後に、軍との共死を指導すべき島田官選知事は、こともあろうに、敵の捕虜になれと「非国民発言をした」ので、「小声」だったのであろう、と推察できます。敵の捕虜になるというのは日本軍としては殺害の対象でしかありませんでした。赤子を抱えた住民さえ、投降するものは殺害の対象でしかなかったことを私は遠縁の家族から聴き取りしています。

私に証言した山里和江さんという知事とは会話ができる立場だった県庁職員は、知事の捕虜になれというショッキングな発言を聞いて

「私はもうがっかりして、起き上がる元気もなくなり、ずっとねそべってました」(拙著『沖縄の旅―アブチラガマと轟の壕』集英社新書、173-174頁)。

まもなく、米軍がガマ内の日本兵を追い散らして、瀕死の住民を救出したので、山里さんもかろうじて生き延びることができました。

この殺害対象になる非国民発言した島田顕知事が、生き残る道は、とりえなかったのではないかと、私は推察しています。島田知事に関して、数十年前から、たびたびテレビのインタビューを受けてきていますが。スパイ嫌疑をかけられた県庁幹部の伊芸徳一さん、この山里さんの証言をメインにして、話してきました。

(7)、住民被害の元凶④=住民被害の元凶高級参謀の手記でみる牛島軍司令官の決意

「予が命(天皇の)をうけて、東京を出発するに当たり、陸軍大臣、参謀総長は軽々に玉砕してはならぬと申された。軍の主戦力は消耗してしまったが、なお、残存する兵力と足腰の立つ島民とをもって、最後の一人まで、そして沖縄の島の南の涯(はて)、尺寸の土地の存する限り、戦いを続ける覚悟である。」(八原博通『沖縄決戦』1972 年、読売新聞社、255頁)

45年5月末、首里軍司令部を摩文仁丘へ移動、避難住民を盾にして、米軍の掃討戦を長引かすという持久作戦、徹底抗戦という作戦をとったのは、住民の間接的大虐殺です。

(8)、住民被害の元凶⑤=国土決戦教令 大本営陸軍部 昭和20年4月20日
「第二章 将兵の覚悟及戦闘守則「敵は、住民、婦女、老幼を先頭に立てて前進し、我が戦意の消磨を計ることあるべし 斯かる場合我が同胞は 己が生命の長きを希
(ねが)はんよりは 皇国の戦捷を祈念しあるを信じ 敵兵殲滅に躊躇すべからず(防衛庁防衛研究所図書館蔵)

2、その他の重要なことがら

(1)、住民被害の元凶⑥)=球軍会報 沖縄語使用禁止 45年4月9日

爾今軍人軍属ヲ問ハズ 標準語以外ノ使用ヲ禁ズ 沖縄語ヲ以テ談話シアル者ハ間諜ミナシ処分ス

(2)、住民被害の元凶⑦=昭和20年6月15日、久米島部隊指揮官(鹿山隊)
「・・・妄りに之(敵の宣伝ビラ)を拾得私有しある者は敵側『スパイ』と見做し銃殺

(3) 前門のトラ(鬼畜米英)後門のオオカミ(自国軍隊)

沖縄戦で住民が集団死に追い込まれたのは、日本軍の軍官民共生共死の一体化の方針が具体化された事件といえます。日ごろ、鬼畜米英と、米軍は世にも恐ろしい存在だということを執拗に刷り込みながら、さらに、兵士同様に老幼婦女子(戦時中の用語)を、絶対に投降を許さないという日本軍の方針を徹底化させました。それで、住民は、絶体絶命の板挟みの状況におかれ、集団死に追い込まれたり、投降しようとして斬殺されたりしました。

おわりに-糸数アブチラガマ(糸数洞窟壕)生存者の沖縄戦の教訓

旧玉城村・現南城市の糸数集落にある大洞窟糸数アブチラガマは、最初は住民の避難壕、その後、日本軍陣地壕、南風原陸軍病院壕の糸数分室・分院として使用されたあと、軍民雑居・軍民一体壕として遺棄された重傷病兵とともに1945年8月末までたちこもっていた。その間、戦後生活に入っていた付近住民が壕内の食糧さがしに、その壕に近づいたとき、三名が銃撃され、殺されました。その壕内で住民側の責任者だった知念さんの証言は、沖縄戦の教訓ともいう内容で、わたしは ウクライナでの戦争に対する、命こそ宝、ぬちどぅたからの メッセ―ジだと思っています。

「戦争は彼我の力量が歴然としていて敗けると思えば、なんら抵抗せずに降伏すればよいのである。ベトナム戦争のようにアメリカ軍にあれほどたたかれる前にベトナム人は降伏すれば、それほどは殺されずにすんだのに」というのが、証言のむすびでした。

1975年、ベトナム戦争が終結した5月のことでした。

(発表原稿・転載にあたり編集部により一部修正)