天気予報がなくなった…「戦争と気象」を語る

99歳の増田さんはときには立って説明した

99歳の増田さんはときには立って説明した

戦争の惨禍を展示と講演や映画で伝える「平和のつどい2022in牛久」が9月17~24日、茨城県牛久市柏田町の市中央生涯学習センターで開かれた。

映画は、旧日本軍が建設した泰緬鉄道にまつわるドキュメンタリー「クワイ河に虹をかけた男」(17日)、原爆の惨状と被爆者の苦しみを描いた1953年公開の「ひろしま」(19日)など。平和展示は絵画・高校生の描いた原爆の絵・戦時中の品々など。

講演会は、14歳の時に東京大空襲に遭った画家の吉野山隆英さんの「東京大空襲の体験」証言や、原爆投下直後の広島に降った「黒い雨」の範囲の調査で知られる気象学者で、旧海軍にも所属した増田善信(ますだよしのぶ)さんの体験談「気象と戦争」など。舞踊家鈴木一琥(すずきいっこ)さんによる東京大空襲をテーマとするダンスパフォーマンスもあった。主催は実行委員会。

パワーポイントを写しつつ講演した

パワーポイントを写しつつ講演した(ストップ温暖化!牛久の会HPより)

■増田善信さんの体験談「気象と戦争」

私は今年99歳になりました。みなさんは毎日天気予報を聞いておられるでしょう。81年前になりますか、天気予報が無くなってしまったんですね。

牛久に近くの阿見というところに海軍の気象学校があり、土浦航空学校がありました。海軍少尉となり鳥取に着任しました。航空隊に天気図をすることを教わりました。航空隊にその日の天気を教えます。

新川飛行場ができて、毎日天気図をつくりそれを司令室に行って教えます。戦争末期になると、銀河という3人乗りの陸上爆撃機が独りでも出るようになります。敵艦隊へ向けて攻撃をしますが、特攻となります。表向きは攻撃ですが実際は特攻です。なぜかなら特攻だと二階級特進としなければならないから、それを回避するためです。

爆撃機は風上から爆弾を落さなければならないので、ひとつの飛行機を上げるのに40分かかります。2時間くらいかけて複数の爆撃機が飛び立つますが、ほとんどグラマンに攻撃され落とされます。

ちなみに特攻機は返ってきたら陸軍では閉じ込めていたそうですが、海軍ではそういう問題はなかったようです。

1941年12月8日、戦争が開始された日です。当時は中学卒業後に京都府宮津の気象観測所に勤めていました。わくわくする気持ちで出勤しました。他所のデータを参照しつつ気圧などの記入して天気図を作成していました。そして意味不明の文字列が流れてきました。暗号解読の乱数表を出して解くように言われました。この日か気象情報は秘密となりました。天気予報が伝えられなくなりました。

それまで漁師たちに、天候を伝えていましたが、それを伝えることができなくなりました。日清戦争の後につくられた軍機保護法(1899年)、軍用資源秘密保護法(1939年)が戦争になると適用されました。

気象と軍事研究の関連では風船爆弾があります。風船を膨らませて実験していました。強い偏西風が吹いているところを利用し、風船に爆弾をつけて米国を攻撃しようとしました。

女子学生たちが動員され日劇で製作されていました。和紙、こんにゃくで貼り合わせてつくりました。風船はある高さから徐々に落ちていきます。250キロの爆弾が1500発届いたと言われています。唯一米国本土を攻撃した兵器です。

台風や地震・津波も伝えられない。東南海地震の津波(1944年12月7日)がありました。40日後に三河地震(45年1月13日)が起きました。疎開で三河町にいた学童たちも犠牲になりましたが、それを伝えることも禁じられていました。

沖縄戦でも特攻隊のために気象観測をする気象職員がいました。沖縄地方気象台職員の4名の生き残りから話を聞いた田村洋三の『特攻に殉ず』(中公文庫 2016年) が詳しいです。

当時の政権は「今に神風が吹く」といって激励しました。よく使われた気象の言葉です。1945年8月22日に東京のみ天気予報が復活しました。灯火管制がなくなり気象庁が勝手に行ったようですが、戦争が終わったことを実感しました。

そういう意味で天気予報は平和のシンボルといっていいのではないでしょうか。
(文責編集部)


集会チラシ裏面

集会チラシ裏面

■参考
76年前の「天気予報が消えた日」生証言
https://weathernews.jp/s/topics/201712/060095/