3.1朝鮮独立運動をあらためて考える
3月1日(水)午後6時から新宿西口で3.1朝鮮独立運動104周年キャンドル行動が行われた。2019年の3.1朝鮮独立運動の100周年集会が開催されて以来、毎年開催されている行動だ。宣伝カーの上でなりぞうさんが唄い、さらに登壇者が次々と発言した。駅前に集った人々は手に手にキャンドル(ペンライト)を掲げて、それに呼応した。
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3.1朝鮮独立運動の意味についてあらためて考えてみたい。1939年3月1日にソウル・パゴダ公園に集まった民衆の独立万歳の喚声はたちまち朝鮮全土に拡大して、その後は数ヶ月にわたって示威運動が朝鮮各地で展開された。
趙 景達(チョキョンダル)によれば「三・一運動の指導者たちは世界の同情や公論にのみ訴えようとした。それゆえ民族代表は非暴力にこだわったし、また臨政もそのように宣伝した」(『植民地朝鮮と日本』岩波新書 2013年)というようにガンディーに先がけた非暴力抵抗運動という側面がある。
また、世界的な反帝国主義運動の一環として中国の5.4運動に影響を与えた「朝鮮民族の悲運を明日の中国の運命として訴え、連帯する気構えを見せたのである」(前掲書)。として世界的な反帝国主義であり民族解放運動でもあった。
また、結果としても「朝鮮を支配するうえにおいて、朝鮮人の協力を得ていこうという政治」(前掲書)の統治への転換が起こり、「文化政治」の体裁をとったが、それは「永久支配しようという目論見をもつものであった」。これなどについても、統治に対しての異議申し立てであり、総督府は「文化政治」へと転換を余儀なくされた、それ自体はいいのだが、支配がより巧妙になったとも言える。
なお、付言すれば、3.1独立運動はウィルソンによる民族自決主義への期待を契機により展開された。その独立宣言は列強諸国に聞き入れられることはなかった。時代の制約だが、それを限界としてするのではなく今も続く問題として考える視点が必要ではないか。
たとえば人種差別に反対するBMRの運動や植民地にあって収奪された文化財など、ポストコロニアルの問題ともつながる。朝鮮が解放されたのは日本敗戦1945年だが、その後も西欧列強は植民地を保持し続けた。
また、南アフリカ共和国のダーバンで「反人種主義・差別撤廃世界会議」が国連主催で開催されたのは2001年である。そこでは、奴隷制や植民地主義を人道に対する罪と認識し、人種差別・外国人排斥の撲滅を中心に移民・先住民・宗教・貧困・人身取引など幅広い問題に言及した「ダーバン宣言」が採択されたが、あらためて植民地支配とかつての帝国主義国諸国の責任が世界的に問われたのだ。
その意味で3.1独立運動が西欧諸国に訴えたことが、徒手空拳であっても先駆的であり、価値はいささかも減じることはない。そして当時の米国の新聞で報じられた「日本の朝鮮支配が文明の伝播である」(『植民地朝鮮と日本』岩波新書 2013年)という思潮にもあたらめて批判しておこう。
帝国主義国による侵略や植民地支配の正当化する論理になった「社会進化論」や「進歩史観」を批判的に見ておくことが重要だ。なぜなら今日でも優勝劣敗による決定や価値の尺度を図る論理としてこれらが作用している。具体的には新自由主義などに大きな影響を与えているのだ。人間社会を功利性や合理性のみで判断する危険性がある。
また、ウィルソンによる民族自決主義についてもロシア革命の影響を懸念し、社会主義を回避するために植民地を独立させようというもので、西欧限定の発想であり、いわゆる「後進地域」には適用されなかった。
このようにいくつかの論点が見出されるが、さらに運動の内実にも着目点がある。
康 成銀(カンソンウン)は「何よりも3・1運動の特徴は,民衆運動としてのその広がりの大きさにある。米騒動や5・4運動に比べても,その規模の大きさは際立っている。文字通り民族をあげての独立運動であった。日本の暴力的な弾圧により多くの死者を出すに及んだが,そのほとんどが無名の人々であった。3・1運動は朝鮮近代史における民族運動発展の到達点を示しているといえよう。」 (「朝鮮近現代史における3・1独立運動の位相」『大原社会問題研究雑誌797/2019』所収) として、まず運動のひろがりと規模をあげている。そして、それを指導した宗教者・民族代表についても限界があり、民衆の直接行動による乗り越えを指摘している。
<「民族代表」は独立運動を計画し,独立宣言書を組織を通じて北部地方の諸都市に配布し,3月1日に一斉に独立宣言書を発表したことで,3・1運動勃発のきっかけを作る役割を果たした。しかし,訊問調書を詳細に検討すると,「民族代表」には当初から「全民族的な示威運動」や「学生との連合」という計画はなかったことがわかる。彼らの運動は,日帝の「理性」に訴えて「自治」もしくは独立を目指すという妥協的性格,欧米列強の「同情」に期待するという外国勢依存的性格,そして自分ら一部グループからなる上層運動的性格をもつものであった。「民族代表」の独立運動の限界性は,3月1日のパゴダ公園から始まる民衆の実際の行動によって乗り越えられていったのである。> (前掲書)
このような朝鮮独立の起点というべき運動だが、解放後の共和国と韓国という分断国家の成立後は評価がその国で違いを見せているようだ。康 成銀によれば、
<共和国では,3・1運動における労働者,農民の主導的役割,その後の民族解放闘争における社会主義運動の役割を高く評価し,「民族代表」の外勢依存性,上海臨時政府の限界性を強調する。また,現代の政治的課題として,反米闘争と祖国統一を一層強調した。韓国では,3・1運動における「民族代表」の指導力,「非暴力闘争」の創造性を高く評価し,上海臨時政府を「継承」した大韓民国の「法統性」を強調することによって,「勝共・反北統一」の正当性を訴える。> (前掲書)
ひるがえって日本の状況はどうだろうか。
当時の日本の新聞は政府や軍部の発表に基いて報道し、そのため朝鮮民衆を「暴徒」として視るのが一般的だったという。(『植民地朝鮮と日本』岩波新書 2013年)そのなかにあって石橋湛山や宮崎滔天、柳宗悦らが朝鮮独立を支持した。しかし日本社会のなかでは、一滴の波紋に過ぎなかった。1923年の関東大震災での朝鮮人大虐殺事件がそれを示している。今日でも排外主義が克服されたとは言えないのはネットの書き込みやヘイト・スピーチが大手を振っているのを見ればあきらかだ。
愼 蒼宇(しん・ちゃんう)は、3.1独立運動100年を特集した雑誌で「歴史修正主義的な立場に立つ安倍政権は,文在寅政権と日本軍「慰安婦」問題や「徴用工」問題で対立し,マスメディアも執拗に韓国批判を繰り返している。その中で三・一独立運動は韓国が反日ナショナリズムを高める政治的材料になるという程度の主張しか見られていない。これが三・一独立運動100年を迎えた日本の歴史認識をめぐる現在地ではないだろうか。」と述懐している。(「特集にあたって」『大原社会問題研究雑誌797/2019』所収)
歴史研究では多くの三・一独立運動の研究がなされて成果があったが、それは学問としてであり、それが反映することは少ないし、日本で韓国・朝鮮に対する見方が変わったということはなかった。むしろ近年の韓国・韓流ドラマブームやKポップと呼ばれる大衆文化の影響のほうが大きいのではないだろうか(歴史に目が向いていないが…)。
また運動研究については、90年以降のソ連・東欧などの社会主義体制の崩壊や中国の改革開放路線転換、北朝鮮の体制危機が影響を与えて、「運動史研究に対する情熱を急速に冷却させた、という。それは「日本のナショナリズムと朝鮮のナショナリズムを同列に串刺しにして批判し、それを第三者的に「越えたい」という近年の研究者の心性とも相まって、運動史研究そのものを批判、ないしは否定しようとする傾向が強くなった」という。(前掲書)
しかし、戦争責任と植民地責任はまだまだ継続されていく問題だ。現在でも朝鮮の植民地支配を正当化する言説がまかり通る現代日本で、3.1朝鮮独立運動そして「植民地(支配)責任」をどう捉えるのか、多くの難点が山積みされているのは、「強制動員問題」「日本軍性奴隷制問題」を見てもあきらかであろう。
(本田一美)