証言から紡ぐ「特攻と覚醒剤」そして日本軍の実相が見えた

第7回わだつみ会オンライン連続講座が2月23日に開催された。講師に相可文代さん(『ヒロポンと特攻』著者、元大阪府中学校社会科教員)を迎え、「ヒロポンと特攻」という内容での講演があり、その後は質疑応答・意見交換をおこなった。主催は日本戦没学生記念会(わだつみ会)。

当時のヒロポンの宣伝チラシ(【特攻と覚醒剤】MBS NEWSより)


ヒロポンの容器

ヒロポンの容器(【特攻と覚醒剤】MBS NEWSより)

相可文代さん「ヒロポンと特攻」


戦争体験で特攻隊に与える覚醒剤入チョコレートを聞いたこと、ロールプレイ授業で戦争に同調する生徒が増えたこと、映画『永遠のゼロ』で戦争を正当化する風潮がでてきたことに危機感を抱いた。それが本を書いた動機です。

ヒロポンとは大日本製薬の覚醒剤の商品名です。他社も製造していたがすべてヒロポンと呼ばれて、多くは錠剤で23種類作られていた。

戦時中はほとんど軍に納められていた。戦後は軍が放出し、企業も売り出した。密造品も出回り、中毒者が続出した。有名人ではミスワカナ、坂口安吾、太宰治など、青少年にも影響を与えた。

社会問題となり、1951年に覚醒剤取締法ができて、禁止された。現在でもうつ病などの薬として使用されている。病院での厳格な管理で勝手に使うことはできない。自衛隊では麻薬とともに常時保持している。

日本軍のヒロポン使用

主に航空兵に与えられた。飛行中に眠くなるといけないので、また恐怖を感じなくなる。錠剤、あるいはヒロポン入チョコレートがつくられたという証言がある。

それから「元気酒」として酒に入れられたり、軍需工場の夜間勤務者には錠剤として提供されたという、勤労動員の女学生の証言がある。注射を打つということもあります。1945年5月に串良基地から出撃した沓名坂男兵曹が出撃前に軍医から注射を打たれた。注射を打ったのは蒲原宏軍医少尉で、手記がある。

本を書いたことにより、コメントが寄せられた。日本軍のヒロポン使用に関する証言は少ないので苦労した。

特攻とは

爆弾とともに体当たりする作戦。非実践的、非合理的で残酷な作戦で、練習機も使われた。 航空特攻では99双軽で機体全体が爆発して効果的ではないかと。人間爆弾「桜花」は爆撃機の下につけて、1人が乗り移り自力では飛べないですが、重力で落ちていく。

水中特攻もあり、人間魚雷「回天」は潜水艦から発射され、とじこまれた人がぶつかります。人間機雷「伏龍」は米軍上陸に備えて、海底に潜んで上陸挺に爆弾を仕掛けます。実戦では使われず、訓練中に何人も死んでいる。

水上では「震洋」ですね、ベニヤ板のボートに自動車のエンジンをつけて、たくさんつくられ陸軍では「マルレ」と呼ばれた。

特攻作戦

主に3つの特攻作戦がある。1.捷号作戦という1944年10月からフィリピン特攻で、2.菊水作戦は1945年4月の沖縄特攻、3.決号作戦は1945年11月の本土決戦の予定でした。

主導したのは大西瀧治郎海軍中将で、不足する航空機、未熟な飛行兵、劣勢挽回のためにはこれしかないとのこと。ただ「特攻は統率の外道」ということで志願を基本とした。神風特攻隊の成果をはじめて聞いた天皇は「そのようにまでせねばならなかったか。しかし、よくやった」ということで、お墨付きを得たとして進めていった。実際は無理やり志願させた。

米国は暗号解読とレーダーで対抗し、特攻は成果を挙げられなくなった。それで嘘の「戦果」が喧伝され、国民を鼓舞する手段に変質した。

最初の神風特攻隊は説得されて受け入れた。関行男隊長は「ぼくは天皇陛下とか日本帝国のために行くんじゃない。最愛の妻のために行くんだ。命令とあらばやむをえない。ぼくは彼女を護るために死ぬんだ」と語る。

遺書なども「喜んで死ぬ」と書かれているが、検閲があり、家族に害が及ぶなど影響することも心配だった。ないより本人のプライドのためにそうせざるを得ない。

証言する梅田和子さん(【特攻と覚醒剤】MBS NEWSより)

証言する梅田和子さん(【特攻と覚醒剤】MBS NEWSより)https://www.youtube.com/watch?v=0jgov8ncbc0

■女学生・梅田和子さんの戦争体験

1930年生まれ、小学1年の時に日中戦争(1937年)、小学5年には太平洋戦争(1941年)が始まる。43年府立大手前高等女学校に入学、45年1月に府立茨木高等女学校に転校し、勤労奉仕へ、9月には授業を再開。戦後は化学者、しょうがい児の地元教育保障運動にかかわる。

大阪陸軍糧秣支廠は大阪港にあったが、1944年4月に茨木カンツリー倶楽部(今でもありますが…)に疎開してきた。近くの茨木高女にも支所を置く。政府の「決戦非常処置要綱」により学校校舎は必要に応じて軍需工場化される。

茨木高女校内には「覚醒剤入りチョコレート」の包装工場があった。1945年2から3月の2ヶ月間包装の作業をした。

チョコバーみたいなものを半透明の紙で包み、それを箱詰めするという。チョコには菊の御紋が刻印されていたという。転校した早々、教員から盗み食いするので監視して報告せよと命令される。

上級性たちに呼び出されて、スパイじゃないかと脅かされて「お前もチョコかじれ」と強制され、同罪とされる。食べると体が熱くなり薬物が入っていると思ったらしい。上級生は「特攻兵が食べるものだ」と語っていた。

1945年4月から8月まで「タチソ」でも勤労奉仕をした。「タチソ」は秘密軍需工場の高槻地下倉庫の暗号で、高槻市北部・成合に建設。44年から工事が開始され、45年1月から川崎航空機の戦闘機「飛燕」のエンジン製造工場となり、常時4000人が従事していた。そのうち3500名は朝鮮人だという。

磐手国民学校への朝鮮人児童の転入は44年には始まり、45年には8月まで毎月続いた。

現在の「タチソ」地下壕は崩落が進んでおり、中に入れない所が増えている。市民の保存要求にも高槻市は予算がないと拒否している。右翼は記念碑にある「銘板」撤去を要求している。「銘板」には「強制連行」の文言がある。3500人の朝鮮人労働者と多くの死傷が出たと書かれている。

ここでは下士官たちによる朝鮮人労働者へのリンチがあった。将校たちに、何故止めないのか聞くと、「朝鮮人だから…」との返答だった。敗戦後は大量の証拠書類の焼却の手伝いをさせられた。

梅田和子さんは、覚醒剤チョコレート製造の一端に従事し、「タチソ」で朝鮮人労働者への虐待を目撃し、証拠隠滅のための書類焼却に従事した。日本人から日本軍の実相を伝える貴重な証言である。多くの女学生が見ているにも関わらず、意識がないと残らない。

「タチソ」にある記念碑。「強制連行」などの3500人の朝鮮人労働者が投入された、とある

「タチソ」にある記念碑。「強制連行」などの3500人の朝鮮人労働者が投入された、とある(you tubeより)

証言する蒲原宏さん

証言する蒲原宏さん (【特攻と覚醒剤】MBS NEWSより)
https://www.youtube.com/watch?v=0jgov8ncbc0

■特攻隊周辺の人々

特攻隊にヒロポン注射をした軍医の蒲原宏少尉は、1945年2月に鹿児島県の串良基地に赴任して、出撃前の特攻兵約200名にヒロポン注射を打ったそうです。特攻は夕方から夜間の出撃するので、対応するのは一番の下っ端の彼だった。

菅原氏によると、出撃前夜、士官食堂に出撃名簿が張り出されると深い沈黙が広がり、とても話かけられるものではなく、特攻兵たちは夜遅くまで起きていて、ギラギラした眼をしていた。

特攻兵と整備兵が喧嘩しているのを目撃した。整備兵は帰還してきた特攻兵は整備のせいにしているのではと疑った。慰安所もあって、タバコで相手をしたという。

特攻基地で勤労奉仕をした立元良三さんは、鹿屋中学生の時に予科練志願したが不合格となり、鹿屋基地内の軍需工場に勤労奉仕した。壊れたゼロ戦の解体班として長崎県の大村基地まで部品を集めに行った。集められた部品で再度出撃する。特攻兵から恩賜のタバコを「吸え」ともらい、それで覚えることになった。

■生還した特攻兵たち

大貫健一郎(陸軍少尉)は知覧基地から出撃し帰還。振武寮に軟禁され暴行を受ける。佐々木友次(陸軍伍長)は9回特攻死を命じられて、すべて生還した。磯川質男(海軍一飛曹)は最初の神風特攻隊「朝日隊」で、不時着した。既に戦死扱いで地元では「軍神」騒ぎ。生還したが、特攻死として発表しているため、再度の特攻に出して死なせて、つじつまを合わせた。特攻は国民の戦意高揚・鼓舞するための手段であった。

■特攻を命じた司令官たち

大西瀧治郎海軍中将(特攻作戦責任者)8月16日未明に自決。すべて特攻すれば勝てると主張していた。宇垣纏海軍中将
(第五航空艦隊司令官)は8月15日の夕方に22名の部下を率いて沖縄の米軍に特攻出撃した。菅原道大陸軍中将(第六航空軍司令官)は「最期の一機で後を追う」と明言していたが実行せずに、「特攻は志願」と言い張り、特攻観音を建立して慰霊にいそしんだ。

司令官に忠実に従った倉澤清志陸軍少佐(参謀)や鳥巣健之介海軍中佐(参謀)たちとは別に美濃部正海海軍少佐(指揮官)は大西瀧治郎の特攻作戦に異を唱えた。

特攻を可能にしたのは軍国主義教育があり、「七生報国」「滅私奉公」などが唱えられ、少年兵を生み出した。教育で戦争を煽った。

■岩井忠正・忠熊兄弟という学徒兵

彼らは日本の侵略戦争を認識して批判していたが、当時の状況で、どのみち死ぬしかないというあきらめから特攻に志願し「回天」基地へ。先輩学徒兵からも暴力・制裁を受ける。

民衆にも戦争責任がある。伊丹万作は『戦争責任者の問題』(1946年)で、多くの人が今度の戦争で「だまされていた」という。だまされるものがいなかったとしたら、戦争は成り立たなかった。だまされる自分を解剖し、自分を改造する努力を始めることだと言っている。

二度と戦争をしないために、教員たちは二度と教え子を戦争に行かせないと誓ったが、不十分で自分の教え子しか見えていない。殺した民衆たちは見えていない。

民衆が賢くなるしかない。おまかせ民主主義の限界があり、選挙権を行使する人が圧倒的に少ない。結局はごまかされている。勝者にも敗者にもならない共生の道を探らないといけない。国境を越えた民衆の連帯していくことが平和の鍵だろう。

(文責編集部)


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