日の丸は消された!ベルリン五輪に「日本人」として出場した朝鮮人選手

1位ゴールして毛布を掛けられて放心状態の孫基禎(youtubeより)

1位ゴールして毛布を掛けられて放心状態の孫基禎(youtubeより)

日本で「パリ五輪」がいまいち盛り上がらなかったとも言われている。それでも7月26日の開会式のフランス革命を模した演出に賛否両論が噴出したり、判定に物議を醸したり、国旗を間違えたりと話題には事欠かないようだ。

1936年のベルリン五輪においてアジア地域で初めてマラソンで金メダルを獲得した孫基禎(ソン・ギジョン)をご存知だろうか。

孫基禎は1912年に日本統治の朝鮮平安北道新義州府新義州(現:朝鮮民主主義人民共和国新義州市)近くの町で育つ。
子どもの頃から走ることが得意で、かけっこでは負けることがなかったという。

若竹普通学校を卒業した孫は、日本で働いたり地元に戻り働きながら陸上競技で良い成績を残し、朝鮮の陸正競技部に入り、朝鮮からの陸上競技長距離種目代表3人に選ばれ、東京で開催されるロサンゼルス五輪選考会に参加する。

ロサンゼルス五輪(1932年)では孫は選外となったが、その時の日本人選手団には朝鮮人が4名(理事1名)、そして台湾人もいたという。まさに当時の日本帝国の状況を反映していた。

1936年ベルリン五輪。孫基禎は前年(35年)の明治神宮の大会で世界最高記録を出していた。そして日本から出場する3名の選手のうち2名が孫と南昇竜という朝鮮人だった。そして大会では孫基禎が優勝し、3位には南が入賞した。日本は1912年の参加以来、マラソンで優勝を果たした。だが、勝者は日本統治下朝鮮の若者たちであった。ちなみに冬季も合わせて10名の朝鮮人選手が参加していたという(『日章旗とマラソン』鎌田忠良 講談社文庫 1988年)。

孫基禎のベルリン五輪優勝後、地元朝鮮では社会的にも熱狂し歓喜の渦が湧いていた。それは日本でも同様だが落差もあった。金誠(キムソン)の『孫基禎』(中公新書 2020年)によれば「異なる熱狂」として、マラソン優勝が「内鮮融和の一助」なることが語られ、孫が帝国日本の英雄として利用しようという思惑があった。

当時の日本の新聞では<日本の栄冠が、半島の新人選手によって「日本」の頭上に載せられた>(『東京朝日新聞』1936年8月11日)と報道された。これは「朝鮮半島の植民地支配の成果を指して」いるという。(前掲書)

いっぽう植民地朝鮮では歓喜とともに悲憤にうち震える人もいたという。それが日章旗抹消事件へとつながった。

「日の丸」が消された東亜日報

「日の丸」が消された東亜日報(箱根駅伝と朝鮮人ランナー:一松書院のブログより)
https://ameblo.jp/onepine/entry-12719233232.html

1936年の8月25日の『東亜日報』夕刊に表彰台の孫基禎の写真が掲載された。しかし、胸にあるはずの日章旗がボケていたのだ。これは東亜日報社の記者である李吉用によりなされたものだが、個人の犯行というよりも、三一独立運動を体験した人びとのなせる技であり、周辺にはもとより民族独立の社風と意識ある社員が形成されていた。

当時は総督府による事前検閲があり、『東亜日報』は最初の印刷は日章旗のあるもの、2版目からはそれが隠されたものとなった。しかしすぐさま陸軍大20師団から呼び出しがあり、新聞の配送・配達中止が命ぜられる。そして李吉用ら5名の逮捕・勾留と言論界からの追放、『東亜日報』は9ヶ月の発行停止となった。<日章旗抹消事件については『日章旗とマラソン』が詳しい。>

いっぽう孫基禎も当局から警戒される存在となり、監視対象となった。孫基禎は外国人からのサインに応じるとハングルで名を記し、国名はKOREAと書いていたのだった。

朝鮮が独立を回復したのち、孫基禎はコーチなどで韓国スポーツをもりたてるが、いっぽう韓国からも民族・国家の英雄としての振る舞いを求められる。過去を振り返り、ベルリン五輪でのマラソンを「朝鮮民族」ではなく「韓国」のために走ったと明言している。(前掲書)

孫の生まれは中国の国境近くで現在は北朝鮮の土地である。当時は北も南もなく、ただ(植民地)朝鮮があっただけの筈だが、戦後のありかたが国家ナショナリズムを意識させる結果となったのだろう。

孫はベルリン五輪のマラソン優勝で朝鮮人でありながら「日の丸」を着けられるという、民族と国家の相克に直面し苦しんだ。植民地解放後の韓国では一転して栄光と称賛を引き受つつ、なにをしても国家に回収されてしまうという、国家主義を要請される五輪スポーツに居心地の悪さを感じていたのではあるまいか。

孫は1950年のボストン・マラソンでコーチ・監督として成果を収めて歓迎会で語った。「最後にお願いですが、選手たちに英雄心を与えず、選手たちを商品化せず、選手たちを政治道具化しないことを強く願います」(前掲書) これは自分が国家に翻弄された体験からの本音だろうし、変わっていないと考える。

(本田一美)

「孫基禎―帝国日本の朝鮮人メダリスト」金誠 (中公新書 2020)

「孫基禎―帝国日本の朝鮮人メダリスト」金誠 (中公新書 2020)