子どもの眼に映ったジャワ島日本軍抑留所の日常
1971年に裕仁天皇が欧州を訪問したときにいちばん反応が厳しかったのがオランダだった。車列に魔法瓶が投げつけられ、抗議行動が繰り広げられた。さらに明仁天皇が2000年のアムステルダムの戦没者記念碑の追悼に訪れたときも、抑留被害者や元捕虜たちが周辺で抗議デモをした。
オランダでは反日感情が強いという、それは第2次大戦中に日本軍は、インドネシアで捕虜4万人と民間人9万人のオランダ系住民を強制収容所に抑留、多くの死者が出たからだ。また「日本軍性奴隷制」(従軍慰安婦制度)をインドネシア各地に設置しオランダ人や現地女性を慰安婦にした。
オランダはインドネシアを植民地にしていたから、オランダに対しては侵略戦争ではないという言説がある。侵略かそうでないかについての議論があるのは承知しているが、現実にインドネシアを占領したこと、民間人などを抑留所を収容し強制労働などで虐待し、理不尽な被害を受けた人々がいたということ、それは侵略かどうかはあまり関係がないのではないか。むしろ人々を日本軍抑留所に収容して、どのような事をしたのか知る必要がある。現実をみるべきだろう。
それを伝えてくれる子ども向けの本がある。それが『母が作ってくれたすごろく: ジャワ島日本軍抑留所での子ども時代』アネ=ルト・ウェルトハイム、 長山さき:翻訳(徳間書店 2018年)である。
この本は日本軍の抑留所に収容されたオランダ人女性が、抑留所での子ども時代を回想するものだ。まず一家5人は父親と別々に収容された。抑留所は二重の鉄条網とマットでかまれ高い見張りがあ台り、常に監視されていた。そのような過酷ななか、母が子どもが遊べるよにと「がちょうゲーム」というすごろくをつくってくれたのだった。
そして荷物が制限されるなか、母は幸いなことに紙と色鉛筆を入れきたのだった。それにより抑留所のようすを描いた絵本ができあがったのだ。
この抑留所に収容されてから、また別な場所に移動させられる。それはユダヤ人だからだ。家族は父がユダヤ人で母はそうではなかった。日本人はドイツ人の真似をしてユダヤを選別したのだった。
結局のところ母は子どもと分かれるのを恐れて、ユダヤ人と申し出てほかのユダヤ人といっしょにまとめられた。
この抑留所ではインドネシア兵が日本兵に使われて警備していたこと。それはどうやら強制的にて揮発していたことが伝わってくる。
インドネシア兵たちはすきを狙っては、家族の村へ逃げ出したという。また、彼らと抑留オランダ人たちは日本兵の隙を狙って食べものと服の取引をしていた。
痛ましい出来事なのは、逃げたインドネシア兵のズボンの出どころを日本兵が探るところだ。
灼熱のなかで病人までも全員を立たせて、インドネシア人を殴りつけてズボンを交換した人を指させた。それはノン・リースという東方ユダヤ人(イラン系の商人)の女の子だった。彼女は二度と戻ってこなかった。
最後に残念なのは、このジャワ島の日本軍抑留所の具体的なデータが示されていないことだ。この絵本をきっかけにインドネシアの抑留所を調べるためのデータがほしかった。インドネシアのジャワ島の抑留所は複数あり、その資料自体が広く知られているとは思えないからだ。
(本田一美)