世界とのつながりのなかで砂川闘争を考える
8月24日に明治大学和泉キャンパスで「もうひとつのグローバリゼーション―文化・社会運動としての第三世界」というシンポジウムが開かれた。最初に趣旨説明があり、構築的概念としての「第三世界」は何ものになるのか。「第三世界」は国家の枠組みにとらわれない越境的な社会・文化運動の概念であった。植民地主義、人種主義、資本主義的抑圧構造は続いている。単なる回顧ではなく現在も生成途上である未成の世界にアプローチするものである。そして若手研究者を中心とした場を設けるとした。吉村竜<ブラジルの「ニホンジン」からの反人種主義運動> 劉国強<朝鮮民主主義人民共和国の美術に西洋美術が与えた影響―文学洙と朱貴花を中心に> 高原太一<世界のなかでの砂川闘争>の報告があった。ここでは以下の報告を紹介する。
世界のなかの砂川闘争
高原太一(成城大学グローカル研究センター)
1950年代の砂川闘争の第三世界性を考えてみたい。世界(とりわけ第三世界)のなかでの砂川闘争を。
<3つの視点>
(1)砂川農民たちが取り結んだ「第三世界」との関わり(経済/蚕糸業)
「土地に杭は打たれても心に杭は打たれない」の言葉で知られる地元リーダー・青木市五郎は、1955年当時、ビルマ、インド、パキスタン、レバノンへと桑苗を輸出し、(『麦はふまれても』)民衆と世界の結びつきがあることは前提であった。「繭と生糸は人々に『世界』を実感させる役割を果たした。多くの人々は、繭や生糸価格の変動を通じて、世界の動きを実感するようになった」(上山和雄「生糸と外商」)
(2)砂川闘争を契機に「第三世界」へと羽ばたいた人びと(文化/抵抗を表現する)
ゲバラのポートレイトを撮った写真家・近藤彰利のキューバ訪問(1963年)は、自身の砂川作品が政府主催の写真展「帝国主義と闘う世界人民 」で入選したことによりつながっていた。日本人写真家が捉えた革命後の「60年代キューバ」展
(3)砂川を訪れた「第三世界」の人びと(政治/社会運動)
たとえば、作家・堀田善衛の論考「砂川からブタペストまで-歴史について-」(『中央公論』 1956-12)、思想家・清水幾太郎の論考「ウチナーダとスナカーワ」(『中央公論』 1957-4)、マルクス主義歴史教育家・高橋碵一のルポルタージュ「世界史の現段階と民族の責任-原水爆禁止と軍縮のための第三回世界大会に参加して」(『歴史評論』 1957-9)そして多くの雑誌など。
砂川とはどういうところか? 東京都北多摩郡砂川町(現・立川市)の五日市街道沿いが(米軍立川基地の)基地拡張予定地だった。インドやイギリス、フランス代表(原水爆禁止世界大会)の人々が訪れたり、激励していた。フェンスのむこうには基地があり、家屋や道路を含むような基地が延長しようとしていた。日本山妙法寺の人々がいた。この人々たちは内灘闘争にもいた。インドの僧侶も参加していた。
原水爆禁止世界大会では豊かな出会いがあった。砂川を訪れた人にはどういう人がいたのか。ベルギー、スエーデン等外国婦人代表(イサベル・ブルーム、シグネ・へーエル)や世界民主婦人連盟会長マリクロード、バイエン、クーチユエリ(仏)が参加。
遠くアルジェリア から東京の全学連大会に出席した同国学生代表タレブ・シャイプ、ネカデイ・ムスタファの両君も姿をみせ “フランスの圧制に、解放の闘いをしている祖国と砂川の闘いは通じている。あす日本を去るが「土地にクイは打たれても心にクイは打たれない」の言葉をわたしも胸にいれて行く ”と話し、盛んな拍手をあびた。 (『朝日新聞』都下版1957年6月8日号)
この言葉は青木市五郎の言葉ですが。外国の方もたとたどしくても日本語で話すということが当時のスタイルでした。
砂川闘争と原水爆禁止世界大会は密着していた運動だった。1956年8月6日、原水爆禁止世界大会の東京大会では「立川基地拡張反対同盟の青木行動隊長以下大勢が白タスキ姿で会場入口に立ちならび支援を求めていたのが人目をひきました」(『教育の泉』1956年8月15日号)など、平和大会に積極的に参加していた。
原水爆禁止大会インド代表アネップ・シンが原水爆禁止世界大会に参加し、砂川闘争にも激励に訪れた。インドの非暴力・不服従運動の本家が日本の闘争を見に来たという構図です。砂川町については何もいえないが、軍事基地には反対という微妙な区別をしていた。
1956年9月26日には支援協(社会党、全国軍事基地反対連絡会議を含む)、全学連、護憲連合、基地問題文化人懇談会、日本平和委員会等16団体が集まり「砂川支援団体連絡会議」を結成した。「現地の写真や声明などを各地評へ発送し、全国的な盛りあがりをはかると同時に、十枚一組の写真を諸外国の労組に送り、国際的アッピールを行う」ことも決定した。そこで砂川闘争は国民運動で、アジア・アフリカの運動で、国際的民衆運動、諸外国に訴える運動となっていった。
外国の反応としては、総評小山政治部長がユーゴスラビィアのチトー大統領から砂川闘争を支持する発言をした。また、イタリア労働総同盟書記長ジュゼッペ・ヴィットリオはローマの日本大使に警官出動を非難する抗議文をよせ、あわせて「砂川の住民の皆さん」へという激励の手紙でイタリア労働者の連帯を示した。
これらの動きを論考したものとして堀田善衛「砂川からブタペストまで」(『中央公論』1956年12月号)があります。既成の従属的な体制を変革しようという意思と思想が生まれて来ている、と描き出した。
いっぽう清水幾太郎は「ウチナーダとスナカーワ」(『中央公論』1957年4月号)で、砂川闘争が外国で知られていることは喜んだが、フランスの運動家と温度差を感じて軍事基地反対運動が危険な問題であると知らされた。
平和運動で原水爆禁止運動と軍事基地反対運動は必ずしも一体ではない。そのちがいを知識人たちは気づいていた。
原水爆禁止平和大会に参加したクーチェリエ(仏)・フェルトン(英)代表が羽仁説子の案内で砂川町を訪れたが、基地問題に違和感を感じたようだ(1956年)。
50年代は反体制運動が体制運動になったりする時代であった。そもそも他国の政治については内政不干渉というのが原則なのだが、それが改めて確認されることになったのではないか。
砂川闘争を星座として見てみると、つながりが見えたり、見えなかったりする。世界の出来事として砂川闘争を語るとはどういうものなのか。たとえば国際グラフィックの雑誌に英語で取り上げられていたりした。
原水爆禁止世界大会がもうひとつの外交の場としてあったことを見たい。そして、日本的平和運動の場としての原水爆禁止運動と世界の反核運動の比較検討をしてみたい。レジスタンス闘士たちの戦後、日本の外国との違いはなんなのか。
(文責編集部)