「昭和100年」とはなにか 戦争と侵略の暴力を直視する

集会チラシ

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<「昭和100年」継続する天皇制国家の戦争・植民地責任の未清算>と題する集会が4月28日(月)に文京シビックセンター4階で開催されて90名が参加した。これは「沖縄・安保・天皇制を問う4.28-29連続行動」の一環で、翌日には<4.29反「昭和の日」デモ>がおこなわれた。

集会では山田朗さん(明治大学教員・日本近現代史)が<「昭和100年」に対峙する歴史認識を>と題する講演をおこなった。

山田朗さん(明治大学教員・日本近現代史)

昭和100年。戦後80年というが戦後といってもアジア、中東などでは戦争は起きていた。元号は天皇の一世一代というが無理がある。後付で天皇と名前で一致させていた。例えば明治天皇の前の孝明天皇はあとからそう呼ばれていた。

元号は日露戦争の後から書くようになった。元号で捉えなれないものがある。歴史を単純化してしまう。元号が終了すると出来事も終わってしまう気がする。つながっていることを見る必要がある。治安維持法100年とも見ることができる。それは植民地支配が暴力を産んで大逆事件があり、日常的に弾圧が加えられる。

日本はロシア脅威論(1870年代)が出てきて戦争準備のために国際を外国に購入してもらった。日露戦争では英国では日本優位の報道宣伝で、債権を売りまくった。その後も米国・ユダヤ資本が購入して、満州の鉄道開発を通じて進出する狙いもあった。日本は日露戦争以後における海外列強に対して、朝鮮支配を認めさせるいくつかの条約を結ぶ。 

日本の朝鮮支配で暴力が内外で伝播する。韓国併合(1910年)と大逆事件(1910年)とのつながりを把握しよう。たとえば甲午農民戦争(1894年)や義兵闘争(1905~10年)では日本が機関銃を使用している。ちなみに台湾征服戦争(1895年)で初めて使用した。

朝鮮総督府の「武断政治」により3.1独立運動(1919年)、間島事件(1920年)から日本の新聞に「不逞鮮人」の文字が踊る。これが関東大震災の朝鮮人虐殺(1923年)とつながる。この前から第1次世界大戦(1914~18年)があり総力戦となる。そこから内的(思想敵)に備えるとして、天皇制支配強化と法律による支配、民衆の相互監視を進めた。

中国への北伐(1926年~)が始まると、張作霖爆殺事件(1928年)が起こり、日本では共産党弾圧(1928年)も起きる。石原莞爾が軍部による満州支配をおこない政府に認めさせる満州事変(1931年)があり、日本では血盟団事件・5.15事件(1932年)が起きるが、これは軍部と民間でおなじ思想でおこなったものだ。

第2の満州国を狙って「河北分離工作」がはじまり、国策となる。盧溝橋事件(1937年)さらに蒋介石政権を倒す戦争にエスカレートする。それが英・米・仏・ソとの世界戦争の構図となる。

戦争は終了しても、問題は忘却された。とりわけ植民地問題と日中戦争への直視を回避している。現在でも日本は植民地支配の暴力を正当化する価値観、独立運動の敵視する価値観が伝播している。明治以来の先進国・大国・一等国の論理。「内敵」を排除しようという論理があり、ヘイトスピーチなど、それが暴力として顕在化する。

抑止力という幻想があり、戦争準備としての軍備拡張が戦争を起こす。軍事力を増強すれば周辺にも連鎖していく。

(文責編集部)