焼け跡・戦争責任・米軍基地 画家たちの戦後と平和・労働運動

第14回九条美術展が5月4日から10日まで上野の東京都美術館で開催された。この美術展は憲法問題に捉われず、自由に創作した作品を発表している公募形式の美術展だ。憲法九条を守り生かすという一点で結集した美術家たちが、2004年6月に九条美術の会を設立し主催している。期間中の5月6日(火)東京都美術館講堂にて武居利史氏の「戦後日本の平和・労働運動と美術家たち」という講演会が開かれた。

武居利史氏(美術評論家・前府中市美術館学芸員)

九条美術の会が20年となり、私も誘われて設立に立ち会ったので嬉しく思う。今回の話は1945年から70年くらいまでの動向で、美術作品と平和・労働運動の関わりについて報告・紹介する。

まず佐田勝《廃墟》(東京大空襲)1945年、富山妙子《地平線》(廃墟)1946年、を挙げる。日本で地平線を見ることはない。廃墟という風景を現出させていた(敗戦当時の)日本。人々は希望というよりも荒涼とした心境ではなかったか。

佐田勝《廃墟》(東京大空襲)1945年(アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】より)


富山妙子《地平線》(廃墟)1946年(【追悼】初期作品にみる富山妙子の作品世界「美術運動」より)

https://ameblo.jp/artony/
アートテラー・とに~の【ここにしかない美術室】
https://www.artmovement.jp/149-022/
【追悼】初期作品にみる富山妙子の作品世界(「美術運動」)

当時は戦争画論争が始まり、宮田重雄の「美術家の節操」が「朝日新聞」(1945年10月14日)に掲載され、鶴田五郎が「画家の立場」、藤田嗣治が「画家の良心」を書いて反論した。戦争画の作品については日本軍の勝利を描いた一種のフィクションだが、空虚なものとなる危うさがあった。

1947年12月には東京都美術館で日本アンデパンダン展が開かれた。内田巌《赤旗 歌声よおこれ》1946年、は争議を描いたもので、民主主義リアリズムを実践したと言われている。

内田巌《赤旗 歌声よおこれ》1946年(ジャパンアーカイブスより)

ジャパンアーカイブス https://jaa2100.org/entry/detail/034493.html

土方定一の『近代日本洋画史』(1947年)と林文雄『美術リアリズム』(1948年)などでリアリズム論争があり、他者も巻き込み議論される。画家の永井潔は写実主義を主張した。

井上長三郎《葬送曲》1947年、は東京裁判や時代の変化を描いている。福沢一郎《敗者群像》1948年、も敗戦後の日本の状況を表現している。古沢岩美の《憑曲》1948年、は広島・長崎そのものがあまり知られていない時期に原爆を描いた作品。

阿部展也 《飢え》1948年、は戦時中フィリピンに行っていたときの飢餓を表している。北脇昇《クォ・ヴァディス》1949年、はまさに戦後を表すもので、男のすぐ下に道標があり、右上には遠景で雨雲があり、左にはデモのような隊列が描かれている。

1950年に朝鮮戦争が始まり、その直前にレッド・パージがある。丸木位里、赤松俊子の《原爆の図 第一部》1950年が描かれる。これは広島の現地をみて取材をしている。最終的に15部まで制作される。サンフランシスコ条約が1951年9月に締結される。同時に安保条約が結ばれたが、米軍基地や沖縄の状況など、日本のあちこちに問題があった。矢部友衛、上野誠などの画家たちは当時の状況を描いた。

中谷泰《モク》1952年、は後ろに有刺鉄線のある民衆の姿を描いている。新海覚雄《独立はしたが》1952年、は新橋の状況を取材したということで、戦後の光景を切り取った作品。背景には米兵と女性たちが戯れている。学生たちに見せたところ東南アジアの情景ですか、と聞かれた。

田中忠雄《基地のキリスト者》1953年、そして山下菊二《新ニッポン物語》1954年、池田龍雄《アメリカ兵・子供・バラック》1953年、これらは米軍基地と周辺の問題を描いている。常盤とよ子は女性で50年代の横浜や売春の実態を撮影した。

新海覚雄《独立はしたが》1952年(画家・新海覚雄の軌跡 (府中市美術館)より)

画家・新海覚雄の軌跡 (府中市美術館)
https://blog.goo.ne.jp/k-caravaggio/e/4eac85fd9e4a4bd4a60f9583f4ba9703

田中忠雄《基地のキリスト者》1953年(黙翁日録より)


山下菊二《新ニッポン物語》1954年(アートイットより)

池田龍雄《アメリカ兵・子供・バラック》1953年(webdiceより)

黙翁日録 https://mokuou.blogspot.com/2015/09/19531957913.html
アートイット https://www.art-it.asia/top/contributertop/204110/

webdice 
http://www.webdice.jp/dice/detail/2764/index.htm

常盤とよ子 《危険な毒花》表紙とページ 三笠書房 1957年


桂川寛《立ち退く人々》1952年


尾藤豊《失われた土地 A》1952年(オベリスク備忘録より)

オベリスク備忘録
https://obelisk2.hatenablog.com/entry/2024/10/10/220518

勅使河原宏が当時の絵を残している。桂川寛《立ち退く人々》1952年、尾藤豊《失われた土地 A》1952年、がある。「第一回ニッポン展」(青年美術家連合・前衛美術会共催)が1953年6月に開催される。これは若手のアンデパンダン展という趣だった。民主主義リアリズムから国民美術へということが提唱された。当時は社会状況を取材して描く「ルポルタージュ絵画がひとつの流行となる。

池田龍雄《怒りの海》1954年、《1000カウント》1954年がある。村上善男《L地区(杭に抗して、内灘)》1955年、 桂ゆき《人と魚》1954年、鶴岡政男《人間気化》1953年も知られている。

箕田源二郎《内灘試射場》1954年(民美より)

民美 https://mimbi.info

池田龍雄《怒りの海》1954年(東京国立近代美術館より)

桂ゆき《人と魚》1954年 (アートの森より) 

アートの森
https://growing-art.mainichi.co.jp/exhibition_20241113/

上野誠《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》1955年(globeより)

上野誠《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》1955年(globeより)

https://globe.asahi.com/article/14686540


ポスター《国連総会へ 原水爆実験の即時無条件禁止協定を締結させよう》1957年(粟津潔/細谷巖/杉浦康平) 国立美術館より
1954年にビキニ環礁で米国の水爆実験により第五福竜丸が被ばくした。これは日本国民へショックを与えた

粟津潔《海を返せ》1955年、は日本宣伝美術会展の公募展に初めて応募したポスターで、米軍の演習基地となり海を奪われた漁師を描いた。《国連総会へ 原水爆実験の即時無条件禁止協定を締結させよう》1957年(粟津潔/細谷巖/杉浦康平)、上野誠《ケロイド症者の原水爆戦防止の訴え》1955年、があり、原水爆禁止運動が隆盛する。

国立美術館
https://search.artmuseums.go.jp/records.php?sakuhin=166002

三菱美唄美術サークルが三菱美唄炭鉱での大衆団交(1946年)を描いた作品がある《人民裁判の絵》1950年。このようなものを描いたのが1950年代であった。

三菱美唄美術サークル《人民裁判の絵》1950年(炭鉄港ポータルサイトより)

炭鉄港ポータルサイト
https://3city.net/cultural-property-list/tanko-19/

当時の知識人・文化人、総評、日教組などにより、労働者や市民の文化サークル・文化団体と国民各層との連携を強めることを目的として、1955年に国民文化会議が結成された。

新海覚雄は国労との結びつきが強く、構内のデモの絵を要請されて制作した。いまでも国労が所有している(新海覚雄《構内デモ》1955年)。米軍立川基地拡張反対の砂川闘争では行動隊長の青木市五郎の肖像も描いている(新海覚雄《行動隊長 青木市五郎》1955-56年)。絵に文字が記されているが、これはモデル本人が手で書いたもので共同制作でもある。

新海覚雄《構内デモ》1955年(府中市美術館より)


《行動隊長 青木市五郎》1955-56年(府中市美術館より)

府中市美術館
https://www.city.fuchu.tokyo.jp/art/tenrankai/jyosetu/ichiran/Josetsutentokushushinkai.html

砂川闘争。田村茂写真集『わがカメラの戦後史』(新日本出版社 1982) 

砂川闘争では田村茂、内灘闘争では佐伯義勝の写真がドキュメントとして知られている。画家たちも主題として描いた。渋谷草三郎の作品があり、中村宏《砂川五番》1955年、は有名な作品。新居広治《農婦(砂川)》 1956年、 靉嘔《若い仲間たち》1954年、利根山光人のダムシリーズ(1956年)や朝倉摂《日本1958》1958年がある。

中村宏《砂川五番》1955年(東京都現代美術館より)


土門拳《筑豊のこどもたち》1960年 パトリア書店

土門拳《筑豊のこどもたち》1960年 パトリア書店 

新居広治《農婦(砂川)》 1956年、

新居広治《農婦(砂川)》 1956年、(美術館・展覧会情報サイト アートアジェンダ より)https://www.artagenda.jp/exhibition/detail/8693

https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/setsu-asakura-2022-report

本郷新の《わだつみの像》 1950年、佐藤忠良《群馬の人》1952年は市井の人を描いていて、浜田知明、香月泰男が戦争を描いている。人間と戦争について問い直すものだ。写真では土門拳《筑豊のこどもたち》1960年、がある。曹良奎という在日の画家がいたが、北へ渡ってしまった。

佐藤忠良《群馬の人》1952年(宮城県美術館より)

宮城県美術館
https://www.pref.miyagi.jp/site/mmoa/mmoa-collect043.html
https://www.tokyoartbeat.com/articles/-/setsu-asakura-2022-report

1960年の安保闘争の時代には安保が表現の主題となった。濱谷浩 が1960年の日米安保闘争を1ヶ月に亘り取材し《怒りと悲しみの記録》を表した。北川民次《白と黒》1960年、桂川寛《それでも彼らは行く》1960年、植竹邦良《6月の手記》1960年、鈴木賢二《労働者を大切に》1962年(?)、儀間比呂志《島のメーデー》1960年、は沖縄を描いている。中島保彦《バリケード》などがある。

濱谷浩『怒りと悲しみの記録』(河出書房新社、1960年)

1964年に読売アンデパンダン展が中止となり、評論家の針生一郎、瀧口修造、画家の池田龍雄らの呼びかけで、自主的に「アンデパンダン’64」を東京都美術館で開催。赤瀬川原平の千円札事件が(63~67年)起こり、裁判になり作品が押収された。また、これを題材として「表現の不自由展」(1967年8月 村松画廊)が開かれた。

1964年からベトナム戦争が激しくなる。松山文雄(まつやまふみお)《ベトナムは死なず》1965年、井上長三郎《ヴェトナム》1965年、糸園和三郎《黒い水》1968年、本郷新「無辜の民」シリーズ、植竹邦良《人形の行く風景》1969年、らが描いている。

寺田政明の《死んだ漁船》1975年、は第五福竜丸を描いている。岡本太郎の《明日の神話》1969年は、まさに原爆を描いたものだ。そしてベ平連の意見広告「殺すな」(ワシントン・ポスト 1967年4月3日)の反戦表現が知られている。また『週刊アンポ』(1969~70年)という雑誌も発売されていた。

当時はさまざまな活動があった。「こえぶくろ連合」という芸術家たちのメディアが発行され、ゼロ次元、ダダカンのパフォーマンスがあり、写真家・平田実などが砂川反戦ロック祭を記録し、ジョンとヨーコのベトナム反戦パフォーマンスが話題となった。ベトナム戦争では沢田教一の写真が有名だが、この頃は絵画よりも速く表現できる写真というメディアが長けていた。

これまで紹介したものは歴史となったが、今日でも通じるものがある。現代でも芸術、芸術家は直面する課題に対して取り組むことが求められている。

(文責編集部)

ベ平連の意見広告「殺すな」(ワシントン・ポスト 1967年4月3日)

ベ平連の意見広告「殺すな」(ワシントン・ポスト 1967年4月3日)。題字は岡本太郎
https://www.toshiroinaba.com/single-post/

『週刊アンポ』表紙。デザインは左・粟津潔、右・横尾忠則


 

「こえぶくろ連合」こえぶくろ連合、告陰センター 1969年。末永蒼生/加藤好弘/藤原菜穂子/中村政治/岡部道男/
秋山祐徳太子/岩渕英樹/みずまち・さちお他が執筆

植竹邦良《6 月の手記》 1960 年(府中美術館より) 植竹邦良 
《6 月の手記》 1960 年([ファッションプレス]より) 上
《人形の行く風景》 1969年(府中美術館より)下

fashionpress[ファッションプレス]画家・植竹邦良の展覧会が府中市美術館で
https://www.fashion-press.net/news/101379