祖父が残した日記を通して満蒙開拓団移民を知る 河野村分村とその蹉跌

「沈黙の奥底」(SBC信越放送2024年)以下映像写真はyoutubeより
8月10日(日)13:30から松戸市民会館301号室にて「人はなぜ、戦争に協力してしまうのか~『蒙開拓団移民』を通して考える~」と題する集会が開かれた。主催は敗戦80年、戦争をとめるための草の根行動実行委員会。
はじめにドキュメンタリー「沈黙の奥底」(SBC信越放送2024年8月制作、約50分)が上映され、その後は映画の補助的話者でもある胡桃沢信さん(くるみざわしん/精神科医・劇作家)が講演した。胡桃沢さんは、祖父が満蒙開拓移民を推し進めた村長だった、満州の開拓民たちは集団死となり、敗戦後に祖父は自宅で自死した。そのことを知り、祖父の残した日記を読み解きながら仮想として対話を試みるかたちとなった。話は映像の裏話も交えて、映画を補うものであった。当日は大雨が降っていたが会場は人が立ち見などの人が溢れ、入れないで帰る方もいて盛況だった。
以下、映画の概略を紹介する。

集会チラシ

戦後80年7.7リレートークで語るくるみざわしんさん
「沈黙の奥底 ~河野村分村が問いかけるもの」(SBC信越放送2024)
胡桃澤伸さんは、村人たちの満州移民を担った村長の孫にあたる。残された日記を手掛かりに、中国の入植地を訪ねて開拓団に土地と家を追われた人に話を聞くなど、加害責任と向き合ってきた。きっかけは祖父が残した日記だった。家の中でもはばかれていた真実を知ることになったのだ。
映画は胡桃澤盛(くるみざわもり 以下盛)が残した日記を読み解きながら盛が満蒙開拓移民(河野村の分村)を推進していく様子を描いていく。

胡桃澤盛の遺した日記群と本人の肖像
盛は1905年(明治38)地主の生まれ、日記には若い頃から深い思索が記されており、「土地、金、社会的地位、生活の安定など、そんなものがいざという時、幾せんの価値があるのか」と問いかけています。彼は「正しく生きたい」と願い、その道筋を探していた。
また、「組合、難しい規則が廻ったようだが、県、政府からも国民の為にならない、国民を無視した政治、何が立憲国だ。地方自治体がなんだ、なのみか、官僚にやられている国よ、国民の為の政治をやれ」と政治に対する批判も記している。
盛は24歳で両親を亡くし家の当主となり、29歳で村会議員、その後1940年に36歳で村長に就任する。
日本によって満州国が建国された(1932年)。日本政府は20年間で500万人の日本人を入れる国策を進めており、ソ連国境の防衛、関東軍への食糧供給、植民地支配の拡大を目的に、県や村単位で数百人規模の1団が満蒙開拓団として入植していった。盛は日記に「今の仲間だけで、各府県ごとに、各村ごとにブロックを作って隔離しているようで、果たして中国人と共に生きていくような事が出来るだろうか」と記した。
村長就任(1940年36歳)の翌日に紀元2600年を祝う式典への出席した。全国から5万5000人が集まり、盛は自治体の代表者の1人として参加した。これで意識が変わったと推察される。日記には「目の辺りする両陛下への御答、近衛首相の発声にて陛下万歳三唱し、全員の各国に在る同胞しく万歳を三唱し、次代に誓を受け喜びを宝かに歌う」「我が民族のみの持つ誇りだ」と記されている。また「新しい年を迎えるに当たり、いよいよ心を引き締めて、村の為、国の為、己を無私にして、五方の誠を進めねばならぬ」とも。
1942年(昭和17)、河野村を含む下伊那郡は満州への入植を重点的に進める特別指導軍に指定され、県は河野村に満州への50世帯の分村を求めた。
長野県知事は昭和天皇から直接に満蒙開拓の質問を受け、開拓事業に邁進する。盛も道路整備などの優遇措置に促されて腹を決める。新京(満州国首都・現長春)の村へも視察に行く。

河野村分村入植式(1944年8月)

満蒙開拓移民の記念写真
河野村から満州へ行った生き残りである久保田さんが語る。14歳の時に満州に行った。少年1人での参加だった。「汽車のホームで日の丸の旗をふって盛大に見送ってくれた」「開拓団って言うからみんな原野を開拓して畑を作っているっていうイメージだったんだけど、あれだけの家屋をくれて、元の住民の人たちはどこ行ったか? どうなったか」土地といえば日本の公設企業、満州拓殖公社が中国の農民から安く買い取り、半ば立ち退かせて手に入れたものだ。
胡桃澤伸さんは、当時村に住んでいた人を長春に訪ねた。サイさん当時は14歳。腹が立ったんじゃありませんか、その家取られてしまって、と聞くと「命さえあれば良かった、日本人の言うことが絶対だったから」「開拓団が耕し始めた土地は、もう日本のものだった」そして、かつて自分の家があった場所へ赴く。日本人に取られたあとはどこへ住んでいたのか「やせた土地に草の家をたてて住んでいた…」とサイさん。
1945年の敗戦・関東軍撤退により、男性は招集されて、分村は高齢者・女性・子どもが取り残され、現地住民の怒りの矛先を受ける状況に陥る。「トウモロコシ畑に身を潜めて、気の毒なほど団長は暴力を受け、虫の息となっていた」(久保田)
暴行・略奪への恐怖と「辱めより死」という価値観の内面化が重なり、子どもから手をかける形での集団自決に至る極限状況が現出する。捕らわれて恥ずかしめを受けるよりは死を選ぶ…村の団長の「楽にしてくれ」という懇願から首を締め、「反対する人はなかったな。このところ満人のおもちゃにされて、もうあげく殺されるよりは、早々と自決していきましょう」「仕方なしに子どもの首をしめるお手伝いを始めた」(久保田)
河野村分村73人死亡。1945年(昭和20)8月16日。
生存者(久保田)は中国人に救助され帰郷するも、国内では「自業自得」とされ、体験の共有は困難で片身の狭い生活を余儀なくされた。
盛は日記に書く「夜も最近、眠られず、外務省分室の3部3課へ行く。満州の状況は全然わからず、新京へ送った分村の者が気にかかり、心安らかならず」敗戦の翌年、村長を引退。分村の人たちの消息はわからない。翌年に盛は自死。享年42歳1945年(昭和21)7月27日。
遺された言葉として「開拓民を悲惨な状況に追い込んで申し訳ない」「財産や家は開拓民に開放してやってくれ」等が伝えられ、責任の所在と贖罪の意思を示す。
胡桃澤伸さんは分村の方が自決した命日に長春の郊外を訪れ花を手向けて冥福を祈った。
(文責編集部)

胡桃澤盛。天皇と国の命を受けて満州への分村を決意する
