特攻という体験それぞれの戦場 兵士たちの証言動画を見る

水上特攻の記念写真。“水上特攻”『マルレ』97歳元隊員の証言 (長野放送2022年8月17日)より
東京・日比谷図書文化館コンベンションホールにて、「戦後80年目の戦場体験映画上映会」が7月12、13日と開催された。13日は映画上映「語らずに死ねるか」と証言動画を見る会「特攻」が行われた。主催は戦場体験放映保存の会。
戦場体験放映保存の会は2004年12月に発足し、一市民として、あの戦場を知る体験談を、ビデオなどに記録する活動に取り組んでいる。2012年にはネット上に戦場体験史料館・電子版を開設。
https://www.jvvap.jp
証言動画を見る会「特攻」は清水義仁(戦場体験放映保存の会)氏が個別の証言動画を紹介し、特攻の実態などを報告。毎日新聞学芸部専門記者の栗原俊雄氏がコメントした。
はじめに特攻について短く解説があった。<航空機や魚雷などに人員を乗せたまま敵艦に体当たりさせる特別攻撃=「特攻」で、搭乗員のほとんどは若者。陸海軍でおよそ6000人が亡くなった>という。
特攻として知られているのは戦闘機や爆撃機など航空機による体当たり攻撃だが、それ以外にもロケット噴射のついた高速のグライダー「桜花」、モーターボートの「震洋」「マルレ」(小型肉薄攻撃艇)、潜水艇、人間魚雷の「回天」、潜水服を着た人間が爆薬で突く「伏龍」、そして、爆弾を抱えて敵の戦車の腹で爆発させる梱包爆薬(急造爆雷)や刺突爆雷の自爆攻撃がある。それらを含めると特攻の死亡者は計り知れないものだろう。
全部で9名の方の体験の動画が流された。一口に特攻といっても体験もばらばらで、さまざまな情況で、それぞれ特攻という現場に立ち会った。

伏龍隊員の攻撃の様子(特攻隊戦没者慰霊顕彰会より)

「最後の特攻」に出撃した川野和一さん。(「玉音放送後に特攻で出撃」NHKアーカイブスより)
中山光雄さん(1922年生)は海軍での戦闘機隊を経て、フィリピン・クラークでの特攻隊を志願したが部下が選ばれて、その後も「熱望」したが、選ばれなかった。
平嶋福美さん(1920年生)は海軍に入団して看護兵となり、フィリピン・ニコラス飛行場にて仲の良かった年下の特攻を複数見送ったという。その体験は忸怩たるものがあったと語る。
西崎信夫さん(1927年生)は海軍特別少年兵として志願し、駆逐艦「雪風」に乗艦し、その後は戦艦大和の最後を目撃し、救助活動に当たった。戦艦が沈むことで海面には重油が浮かび、救助するにも難儀をしたという。
松浦喜一さん(1923年生)は慶応大学予科3年在学中に学徒出陣、第144振武隊(1945年3月26日から始まった沖縄戦における陸軍第6航空軍隷下の特別攻撃隊たる飛行部隊)に配属された。菊水作戦で6月19日に出撃するも、破天により、機長判断で引き返した。つくづく「特攻隊は行く前に天候などの調査、探求をしないといけない」と語る。そして「帝国軍人に対して怒りがある」とも。
磯部利彦さん(1920年生)は空中の火災事故で全身に火傷を負う。退院後は航空乙参謀となり、神重徳の司令のもと、練習用の複葉機などの総特攻の編成をおこなった。九三式中間練習機は機体がオレンジ色だったため、通称「赤とんぼ」と呼ばれている。この練習機は木製や布製であったためレーダーで感知されにくく、「攻撃は意外に効果があった」という。
岩井忠正さん(1920年生)は慶応大学在学中に学徒出陣し、海軍予備学生として山口県光基地で回天の訓練を受けていたが、結核と誤診されて部隊をはずれ、伏龍の部隊に転属されて訓練にあたった。「潜水服を着て対処するが、潜水用のガラスからは海中はまったく見えない」と、実戦においては敵の船艇を判別することもできそうもないと語る。
川野和一さん(1924年生)は海軍の乙種飛行予科練習生に志願し、米子の第701海軍航空隊に配属された。1945年8月15日の夕方に第5航空艦隊司令長官の宇垣纏中将とともに特攻に出撃した。燃料切れで鹿児島沖に不時着した。「戦争が終わったことはまったく知らなかった」という。これは城山三郎が小説に描いている(『指揮官たちの特攻』新潮文庫)。
さまざまな証言があったが、最後に聞いた川野さんの例は有名な「最後の特攻」であり、いわゆる「玉音放送」の後に終戦を知りながら、宇垣纏中将は特攻隊を指揮し、11機23名で沖縄沖に向かった。最後の特攻は生還者が5名、18名が亡くなった。本人だけが特攻に行くならまだしも、多くを道連れにすることは許されないだろう。
(編集部)

