船橋と八千代で追悼と慰霊 朝鮮人犠牲者を忘れない

船橋市営馬込霊園での朝鮮人犠牲者追悼式は2025年で79回を数える

船橋市営馬込霊園での朝鮮人犠牲者追悼式は2025年で79回を数える


9月7日(日)に「関東大震災102年―朝鮮人犠牲者追悼式」が千葉県船橋市の市営馬込霊園の慰霊碑の前で開かれた。主催は在日本朝鮮人総連合会県西部支部などでつくる実行委員会。追悼式は通算79回を数える。

この石碑は1947年3月1日、在日本朝鮮人聯盟千葉県船橋支部によって在日同胞の慰霊のため「関東大震災犠牲同胞慰霊碑」として、船橋市本町に初めて建てられ、1963年に現在の市営馬込霊園に移設された。

千葉県では1923年の関東大震災の発生した9月1日の翌日から9日まで朝鮮人への虐殺事件が起きたという。千葉県では三百数十名が犠牲になったとも、残念ながら正確な数はわかっていない。それは官憲などが遺体の隠蔽などの妨害をおこなったからだという。(山田昭次『関東大震災時の朝鮮人虐殺とその後』創史社 2011年)

10時30分から式が開始され、黙祷、献花、呉学成さん(在日本朝鮮人総連合会千葉県西支部委員長)と宮川敏一さん(日朝友好千葉県の会、新社会党千葉県本部委員長)の追悼の辞、弔電紹介、朝鮮学校出身の若者による女性たちのコーラスと男性の独唱があった。最後に参列者による焼香で解散となった。

追悼の辞では、25年5月には勉強のため国会議員有志が馬込霊園、八千代市高津の観音寺など3カ所を回り、確認したこと(議員団が訪れたのは初めてだという)。そして、政府に対して朝鮮人虐殺の検証を求める要望書を提出したこと。また、多くの朝鮮人労働者が日本人とともに犠牲となった山口県宇部市の「長生炭鉱」の水没事故(1942年2月)について、今回、市民調査が進められて「遺骨」が発掘され、政府も対応せざるをえなくなってきていることなど指摘して、虐殺の真相究明と国家責任をあきらかにすると誓った。

慰霊碑前で朝鮮学校出身者たちによる合唱があった

慰霊碑前で朝鮮学校出身者たちによる合唱があった


日にちが変わって9月13日(土)に八千代市高津山観音寺において関連行事として「関東大震災102周年 慰霊祭・巡回供養」が開催された。高津区特別委員会、高津山観音寺、千葉県における関東大震災と朝鮮人犠牲者追悼・調査実行委員会の共催である。1983年から続けられて今年で43回目となるそうだ。

式の前に12時30分より学習会が開かれ、事務局の平形千恵子さんから、地域における関東大震災時の朝鮮人犠牲者の追悼と調査について、これまでの歩みと近年の資料発見などが語られた。

そして、鐘楼・慰霊碑の前で14時より慰霊祭が開催された。主催者あいさつと献花、そして高津山観音寺住職・副住職、萱田山長福寺住職による読経のなか、参列者の焼香が続いた。最後に観音寺住職の関琢磨師から挨拶があり、閉会となった。

住職の話にもあったが、高津山観音寺の普化鐘楼は1985年に韓国の劇作家・金義卿(キムウィギョン)氏、沈雨晟(シムウソン)氏らによって寄付を募って建てられたが、経年劣化により痛みがでて、補修が求められていた。この度、日韓の寄せられた募金をもとに補修が行われ、4月には韓国から文化財の修繕などに携わる職人が来日した。鐘楼の屋根や柱には韓国式の色鮮やかな文様が復活していた。

鐘楼の前で慰霊祭が開かれた

鐘楼の前で慰霊祭が開かれた

普化鐘楼は修復されてきれいに色が映えていた

普化鐘楼は修復されてきれいに色が映えていた


鐘楼脇に案内板も韓国語と日本語で設置された

鐘楼脇に韓国語と日本語で案内板も設置された

慰霊祭後は巡回供養として、分散して萱田山長福寺と中台墓地へ向かった。萱田山長福寺は住宅地のなかの小さな墓地で、比較的新しい(と感じる)墓地だ。1983年に萱田の住人の尽力で、村の共同墓地から3人の朝鮮人の遺骨を長福寺に改葬し「至心供養塔」を建てた。その過程では、いろいろ地域で葛藤があったようだ。お経と焼香をおこない次へ向かう。

長福寺にある「至心供養塔」とお墓

長福寺にある「至心供養塔」とお墓


そこから東葉高速鉄道の線路を跨いだちょうど反対側にある中台墓地へと移動した。八千代市民会館の脇にある細い道を下ると、中腹に中台墓地がある。周囲は野球場や運動公園があり、木々に囲まれた場所だ。そこでは、小学生のときに松の木に縛り付けられた人を見た、という当時の証言が残っている(当日配布資料による)。ここには地元の人々により「無縁供養塔」が建てられている。やはりお経と焼香の供養をおこなった。これで八千代市内の巡拝供養は終了した。

(本田一美)

中台墓地の「無縁供養塔」

中台墓地の「無縁供養塔」