101年目の関東大震災大虐殺追悼と人災の記憶を未来に伝えるということ
お盆を過ぎて月末に近づくと天気が崩れてくる。夏の終わりを感じるときで、雨の日が続いたりする。今年は台風が北上した。そんななか関東大震災から101年目を迎えた2024年、朝鮮人虐殺の問題は依然として燻り続けている。
昨年は節目の100年だったこともあり、マスコミや周囲も注目度は高かった。通常はそのような記念の年が過ぎると忘れさられるのだが、これだけは厄災の記憶と不可分にあり続けるだろう。棘のように突き刺ささっているものだ。抜くことのできない棘に痛みを感じない人がいる。そのことにも嘆息してしまう。
「関東大震災から101年―人災の記憶を未来に伝える」
台風が接近していることが気がかりではあったが、8月26日に千葉市の市民美術館へ出かけた。「百美+(ひゃくび)」の展覧会への展示搬入があるからだ。
百美+とは23年9月に発足した千葉県に拠点を置く朝鮮人・日本人のアーティストや市民たちによる団体で、説明には「関東大震災朝鮮人虐殺から101年目を迎えて千葉県の美術シーンを再考しそのあり方を模索するプロジェクト」とある。
昨年、千葉県立中央博物館で展示会「関東大震災から100年―災害の記憶を未来に伝える」が開催されたが、そこでは朝鮮人虐殺の言及がなかったため、現状への変革、問題提起も含めて、百美+で関東大震災虐殺の当時の状況の学習や現場の取材などをおこない。101年目を迎えるにあたり、8月27日~9月1日にかけて、千葉市立美術館市民ギャラリーで展示会「関東大震災から101年―人災の記憶を未来に伝える」を計画したという。
私がこのプロジェクトを知ったのは24年の6月頃なので、時間もなく焦ってクラウドファンディングの支援をした。結果として支援者総数が163名となり、目標額も達成して目的だった展示会が開催されたのだ。
実際の展示だが、会場を入って左側にこれまでの活動や千葉県における状況を一覧できる。さらには学習会の記録としての写真やビデオが閲覧できる。
会場の中央にはブックスペースや休憩場所が設けられており、抗議のはがきを書く机も置かれていた。会期中にはハチミツで版画を彫るワークショップ、朝鮮の民俗楽器であるチャンゴの演奏、〈証言を土から掘り起こす!?〉という土のなかから証言(手がかり)を掘り起こすパフォーマンス、最終日はアーティスト・トークがあり、作家からの発言を聞くなど多彩であった。
重い大きなテーマではあるが、ある種の軽やかさも感じた。それは隅に配置された模擬の樹木である<(モンリョン)こぶしの木>のせいかもしれない。こぶしの木は朝鮮人の遺骨が埋まっていた八千代市の「なぎの原」という場所にあったもので展示期間中に会場に再現されて、朝鮮の伝統的な紙や布でできた花が咲いていた。
そのおおきな木にはハングルが書かれた花がついていた。花は参加者によって増やされていたのだが、軽やかさと可憐さのある樹木は不思議な存在感があったのだ。
ギャラリー最後の日の9月1日(日)は船橋市の馬込霊園で例年おこなわれている朝鮮人犠牲者の追悼式に参加した。主催は総連千葉・西部支部で、霊園内の関東大震災犠牲同胞慰霊碑前で式がとりおこなわれた。
参加者の黙とう、そして船橋市、八千代市、鎌ヶ谷市、市川市、習志野市の市長らが式に寄せた弔電が紹介された。そして今回初めて、千葉県の熊谷俊人知事から弔電が寄せられたことが紹介された。これには参加者から声が挙がった。一歩前線ではある。熊谷知事は武器見本市を中止してくれればいいのだが…。
そして千葉の市民ギャラリーでは、アーティスト・トークでさまざまな表現の思いを聞くことができた。いろいろと新しい知見も得られた。参加者も大賑わいであった。後日参加者が600名を越えたと聞く。台風に見舞われてやや心配ではあったが、新聞や地元のテレビや千葉日報なども取り上げてくれてまずは良かった。
自分も参加して改めて思うことは虐殺の事実のみならず、朝鮮人の人びとがその地域に、そこに生きていたという証を残しておきたいという意識。そしてこのことを忘却させない、風化させてはならないという意思のありかを見た。
新井勝紘氏の『関東大震災 描かれた朝鮮人虐殺を読み解く』(新日本出版社 2022年)を読むと「朝鮮人虐殺に触れていない震災展ほど、空しいものはないというのが私の歴史認識である」とある。まったく同感なのだが、震災の記憶とどう結びつけていくのかは課題だろう。
その実例ではないのだが、私の居住地はたまたま中山競馬場が近い。その競馬場の近くにはかつての海軍省の船橋送信所(現行田公園)があり、そこから全国へ虐殺の原因をつくった電報を打電した。いわば流言の発信場所でもあったのだ。さらに現在の競馬場の駐車場付近では16名の朝鮮人が虐殺されたという(前掲書)。
その辺りは月に二回ほど通るのだが、上記の事を知ってからは、微妙に落ち着かなくなる自分がいた。うまく説明できないが、まさに歴史が身近に迫ってくることを感じたのだ。近いうちに周辺のいわれのある場所をきちんと押さえて、尋ねようと思う。
9月7日(土)には15:00からの「関東大震災101周年 韓国・朝鮮人犠牲者追悼式」に参加した。会場は荒川河川敷の木根川橋の下だ。今年の夏はまだまだ暑く、9月に入っていることが感じられなかった。京成押上線八広駅を降りて河岸に向かうとすぐに堤防のある土手にぶつかる。土手を乗り越えるとすぐに荒川河川敷に出る。毎年この場所で追悼式が開かれてきた。
河川敷では主催者である「百年」のメンバーにより、慎昌範(シンチャンボム)さんの目撃証言・自警団による虐殺の様子が読み上げられた。その背景ではパレスチナで今も続く民族浄化に対する批判として凧揚げがおこなわれた。物資が制限されているプロテストの表現であり、物資が少ない子どもの娯楽だという。そして現在のパレスチナとかつての日本の虐殺はつながっていると話す。
式の終了後は追悼の伝統芸能である風物(プンムル)で締められた。様々な伝統打楽器を軽快に鳴らしながら楽しく踊り、練り歩く姿は本当に青空に映えていた。
荒川河川敷は軍隊が朝鮮人たちを殺害し、その犠牲者の遺体が埋められ、さらに掘り起こされて運ばれて虐殺の証拠は消し去れた。そういう場所だ。その現場で追悼碑をつくり、追悼式を開催(共催)している「ほうせんか」の活動には感嘆せざるを得ない。かんたんに紹介しよう。
彼らが2009年に建てた「関東大震災時 韓国・朝鮮人殉難者追悼之碑」はちょうど追悼式があった河川敷の土手をはさんだ反対側のすぐ横にある。そして横には「ほうせんか」の家が建っている。
もとは絹田幸恵さんが荒川放水路開削工事の成り立ちの聞き書きを始めたなかで、古老から朝鮮人が虐殺されて埋められたことを聞き、やがて「関東大震災時に虐殺された朝鮮人の遺骨を発掘し慰霊する会」として発足した(1982年)。 そのとき大々的に試掘を行ったが、遺骨を発見することはできなかった。
せめて追悼碑につくろうということだが、国有地である河川敷にはつくれなかった。酒屋のおやじさんのはからいで川そばに土地の提供を受けて追悼碑をつくることができた(管理者として「一般社団法人ほうせんか」を設立)。ただ、追悼碑をつくっても次世代に語り継ぐ作業がある。また、現代の日本でもヘイトスピーチや差別が根強い。この状況がある限り虐殺事件が終わることはないのだろう。一連の活動には頭の下がる想いである。
終わりに…
日本政府は関東大震災の朝鮮人虐殺について「政府として調査した限り、政府内において事実関係を把握することのできる記録が見当たらない」(2023年)と発言した。その認識は変わっていないようだ。
小池百合子東京都知事は、またも東京都墨田区の横網町公園での朝鮮人犠牲者の追悼式に追悼文を送らなかった。当の式典の実行委員会は追悼文を出すように8月1日に要請していた。さらに8月5日には東京大学の外村大教授らが、追悼メッセージを出すように要請をしていた。
また、田中優子らの「平和を求め軍拡を許さない女たちの会」も同様の要請をしていた。これだけ言われても都知事が頑なに追悼文を出さないのは、出したくない理由があるからだろう。
それはまさに、加害者として再現する可能性があるからではないのか? 小池知事は「それぞれが研究されている」として自身の考えは示さない、という。それは事実を歴史を認めない、あるいは評価をしないということではないか。また「全ての方々に慰霊する気持ちを表している」というが、まさに虐殺された人びとを、事故であったと見做すものではないのか。事故でなくなった人と殺された人はあきらかに違う。
殺された人は死ななくても良かった存在であり、また人の手によって殺されるという明確な犯罪なのである。天災は防げないが犯罪は防げるし、処罰も可能なのだ。
その意味で自治体の首長が追悼し、再現させない、加害者も被害者も生み出さないと心に刻むこと、そのことを人びとに明らかにすること、表明することが何より求められている。それができないのは人間として不適格だから退場願うしかない。
(表現者A)