軍都としての王子・滝野川 そしてベトナム反戦のたたかいの記憶

北とぴあ、地下1階展示ホールの会場
【戦後80年「戦争」の展示を見に行く―2】
「平和のための北区の戦争展」は、1995年から北区の市民有志や市民団体、労働組合などが実行委員会をつくり主催・運営されてきた。今年で30回となり、北とぴあ地下1階展示ホールで8月23、24日に渡り開催された。
映画やアニメの上映、柳澤協二(元内閣官房副長官補、NPO法人国際地政学研究所理事長、新外交イニシアティブ理事)さんの講演、地元の出版社であるころからの出版物の展示紹介、子どもの体験コーナー、戦時・戦中の資料・生活用品などの展示、紫金草合唱団の合唱、王子稲荷神社の弾痕跡の戦跡見学もあり、盛り沢山の内容であった。

地域の運動団体、市民有志で主催、運営されている
さて、北区とは軍都であった。この催しの25年目を記念して、これまでの歩みと北区の戦争遺構MAPが一体となったものが、会場で配布されていた。マップには東京第一陸軍造兵廠などの陸軍関係遺構が16箇所(そして鉄道の引き込み線)が掲載されている。軍の関連も含めるともっとたくさんあったのだろう。ここから軍都の成り立ちを紹介してみよう。
いまの北区は1947年に王子区と滝野川区が合併して誕生したが、それ以前(北豊島郡)から旧日本軍の関連施設がたくさん造られたという。そのため米軍の空爆の標的にもなって、12回もの空襲を受け、多くの犠牲者を出した。敗戦後、すべての軍施設は米軍に接収されて、最後はキャンプ王子(アメリカ陸軍野戦病院)が1971年に返還された。
この最後に返還されたキャンプ王子については、北区の住民も巻き込んだ反基地・ベトナム反戦のたたかいとして王子野戦病院反対闘争が語られている。
北区が軍都であったということは自治体でも共通の認識だ。
https://www.city.kita.lg.jp/socialcare-health/health/1008314/1008321/1008328/1008345/1008352.html
北区のHPには健康・医療・福祉というなかの健康づくりの項で「平和を願う!軍用地を巡るコース」がという街歩きルートが設けられている。そこには「北区は「軍都」と呼ばれてきた歴史があります。戦前、区の全面積のうち、ほぼ1割の土地が、軍用地として利用されてきました。火薬や兵器、軍服や軍靴を製造する工場や、橋や陣地をつくる工兵隊が置かれていました。帝都の防衛線である荒川の内側であり、水に恵まれ、鉄道等の交通の便が良かったことが、軍用地に適していたのです。」とある。
そのコースは<1.十条駅南改札前 2.十条富士見中学校のレンガ塀 3.自衛隊十条駐屯地の東京第一陸軍造兵廠旧254号棟 4.中央図書館の東京第一陸軍造兵廠旧275号棟 5.中央公園文化センターと「ボイラー・煙突」 6.憲兵の詰所 7.四本木稲荷神社 8.滝野川三丁目公園(軍用地の標石) 9.平和祈念像(北とぴあ前)>というもので、ルートマップも掲載されている。
着目する点を挙げていこう。「2.十条富士見中学校のレンガ塀」は十条台一帯に陸軍の弾丸工場で、東京第一陸軍造兵廠と呼ばれていた。十条富士見中学校の埼京線側にあるレンガ塀は、この工場の敷地境界の塀を保存したもの。
「3.自衛隊十条駐屯地の東京第一陸軍造兵廠旧254号棟」自衛隊の十条駐屯地には、以前の東京第一陸軍造兵廠の巨大な赤レンガの門が残っている。壁に碍子(がいし)が埋め込まれている。(碍子とは、電線から電柱や鉄塔へ電気が漏れるのを防ぐための絶縁器具)
「4.中央図書館の東京第一陸軍造兵廠旧275号棟」やはり弾丸を製造していた。この建物は周囲にいくつか残っていた三角屋根(切妻破風)のがっしりしたもの。保存・活用で図書館になっている。
「5.中央公園文化センター」白い建物の中央公園文化センターは、1930年(昭和5年)に兵器工場である陸軍造兵廠火工廠の本部事務所として建てられ、当時は茶色のスクラッチタイルの外壁だったが接取した米軍により白く塗り直された。その後は
野戦病院(キャンプ王子)となる。
「6.憲兵の詰所」かつての東京第一陸軍造兵廠滝野川工場には入口付近に憲兵詰所があった。やはり弾薬などの軍事に関する場所は監視・警備が厳しかったのだろう(滝野川4-10先)。
「8.滝野川三丁目公園(軍用地の標石)」北区にあった軍事施設の面積は全体の1割だが、これは23区でもっとも高いもの。滝野川三丁目公園には、標石が3本展示されており、うち2本には「陸軍用地」の文字が刻まれている。
「9.平和祈念像(北とぴあ前)」1990年に平和を願う区民のシンボルとして建立。長崎市平和公園の「平和祈念像」の原型をもとに製作。作者である北村西望は北区在住であった。
王子野戦病院反対闘争に話を戻せば、1968年1月に東京都北区の小林正千代区長は北区内の米軍王子キャンプに野戦病院開設の連絡があったことを発表する。「この計画はベトナムでの負傷兵の増加に対応したもので、ジェット輸送機なら約三時間で立川や横田の米軍基地に輸送でき、そこからヘリコプターで王子まで負傷兵を運ぶ計画であった。人口密集地である王子に約二〇〇〇ものベッドを設置すれば、輸送ヘリの騒音や病気の伝染の恐れがあるとして、地元の区議会が六五年末から反対の声をあげていた(略)三月八日に新左翼系学生が角材や投石で機動隊に対抗、負傷者が多数出たが、この衝突を機に地元住民による反対する会が発足」(油井大三郎『平和を我らに』岩波書店 2019年)
その後、病院設置の翌年の1969年に米軍のベトナム戦争への縮小に伴い、病院そのものも同年11月に閉鎖した。70年代には返還されて北区は跡地を公園として整備した。軍都以後もベトナム戦争の影響があったのだ。

北区の中央公園文化センター(元第二陸軍造幣廠)は元はレンガの茶色だった(このまちアーカイブスより)

米軍ヘリ(youtubeより)

王子野戦病院への反対デモ(youtubeより)
10年以上前だが、板橋区に住んでいて付近を何度か自転車で巡ったことがある。実は板橋区にも第二陸軍造幣廠の建物が残っていて、頑丈な柱がいかにも危なそうなものを扱っているという感じを漂わせていた。そして北区にも似た建物が遺っていて訝しく思ったことがある。また、キャンプ王子の建物で印象的な北区の現中央公園文化センターの白い建築も、何度か足を運んだ。市ヶ谷の旧士官学校庁舎に似ていて軍関係だと睨んでいた。
地域の平和展をめぐって、やはり印象的だったのが、その土地の空襲や戦災の記憶であった。月並みな言い方になるが、軍事や戦争の痕跡は消せるようで消えない、また、消してはならないものでもある。さらに、いかに世代を越えて継承していくかも課題であろう。
(本田一美)

「平和のための北区戦争展」チラシ

児童向けの本も用意されていた

パレスチナについての映画の案内

戦時中の用具、戦争被害の部位の展示

戦時中の公債のチラシ

鉄兜やもんぺなどの戦時中の日用品

戦時中の子ども服も国粋・軍隊柄に

北区の空襲図

会場には平和のモニュメントも設置されていた

多くの紙芝居が展示されていた

戦時中の愛国流行歌の歌詞が展示されて、歌も聴くことができた

王子野戦病院闘争の説明もあった
平和のための北区の戦争展とは
https://kitaku-sensouten.com
