消せない記憶―佐渡金山の朝鮮人労働者

日本政府は2月に新潟県の佐渡金山をユネスコの世界文化遺産登録に推薦した。韓国政府などから「強制労働の被害」の現場であると批判されて、一時は取りやめの検討されたが、自民党内部で求める声もあり推薦に転じた。3月28日には佐渡金山の世界文化遺産登録めざす議員連盟が発足するという。韓国の新大統領に日韓関係に寛容な尹錫悦(ユンソクヨル)氏が就くことになったため、組みやすいとの期待もあるのだろう。

日本政府が、佐渡金山について過酷な環境で働かせていた朝鮮人労働者たちを正当に説明するとは思えない。かつて長崎・軍艦島の世界遺産登録に関して日本は韓国からの批判などについて、軍艦島などで強制動員があったという事実を含む「歴史の全体像」を周知させると約束した。しかしその後は進展せず、むしろ強制動員の歴史を歪曲する方向へと進み、ユネスコ世界遺産委から「軍艦島の強制労働の被害を無視するのは遺憾」と改善の決議が出されている(世界遺産委、日本に改善要求決議 軍艦島の展示めぐり「朝日新聞」2021年7月22日)。

日本政府は文化遺産としての佐渡金山を「戦国時代末~江戸時代」の時期に絞って現代史の強制動員の時期を外し、強制動員に関連する遺産も除外しようとしている。まさに強制労働隠しであるとしか見えない。それで世界の理解が得られるだろうか。

NYタイムズの記事を伝える「クーリエジャポン」HP

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https://courrier.jp/news/archives/279953/

あらためて、佐渡金山の朝鮮人労働者の流れを確認しておこう。「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」という広瀬 貞三(新潟国際情報大学)による研究を紹介したい。

佐渡金山(以下、佐渡鉱山とする)は江戸初期から採掘されてきた金山だが、明治維新後は農商務省、大蔵省へと移管され、1889年には宮内省御料局の所管となる。その後は三菱合資会社に払い下げられ、三菱鉱業の経営となる(1918年)。

1910年に作成された「調書」によれば、「鉱夫」、「人夫」は704名で、ここで21名の朝鮮人労働者が確認できる。出身別にみると朝鮮は7番目だという。

1899年には佐渡鉱業所の鉱山労働者が騒動争議をおこした。1900年3月、1917年3月、1922年5月にも争議がおこり、佐渡鉱業所は1926年に労働係を新設して労務管理を強めるいっほう、部屋制から直営制度へと方向を転換していった。

1931年の柳条湖事件以後、中国大陸での戦火の拡大により、金に対する需要が増加した。金増産の国策的要請により、佐渡工業所では金生産体制が強化された。さらに戦争拡大により銅の産出を主として稼働することになった。

●朝鮮人労働者の戦時動員

1937年7月の盧溝橋事件により日中戦争が全面化すると、佐渡鉱業所では増産のために朝鮮人男性を労働者として大量に動員した。1939年度の朝鮮からの労働力導入は8万5千名に決定。当初は各企業による「募集」形式だが、1942年7月から「労務協会斡旋」に変更。1944年9月から「徴用」となる。これらは日本政府と朝鮮総督府が連携・国策として遂行された。

佐渡鉱業所は1939年2月に、朝鮮人第一陣「募集」を開始した。回数や人数は不明だが、1940年2月から42年3月までに6次に渡って総数1005名を「募集」で集めた。朝鮮人の動員は1945年7月までおこなわれて、家族も加えて少なくとも13000人近い朝鮮人が佐渡鉱山で暮らしたと推定される。

佐渡鉱山には朝鮮人以外に、日本人の学生や「勤労報国隊」も数多く動員された。しかし主に坑外作業であり坑内作業はほぼ朝鮮人に依存していた。

1942年5月の佐渡鉱山では日本人709名、朝鮮人584名、合計1293名が働いていた。鮮人の割合が高いのは「運搬夫」、「磐岩夫」、「外運搬夫」、「支柱夫」であり、危険な坑内労働を朝鮮人が担った。

朝鮮人一人当たりの平均月収は1943年4月が83円88銭、5月が80円56銭である。朝鮮人の賃金には二つ問題が指摘できる。第一に、元農民である朝鮮人にとって技能が要求される「請負制度」は日本人に比べて不利だったと思われる。第二に後述するが、この賃金から労働に必要な道具代等が差し引かれるため、実際手もとに残る賃金はごく僅かであったと思われる。

朝鮮人動員の期限は2~3年であったが、佐渡鉱業所の方針は有無を言わさずに継続就労だった。「募集」形式でありながら、実態は強制労働であった。

鉱山労働で朝鮮人はどのくらいの死傷者が出たのだろうか。1935年7月の佐渡鉱業所では「楽土化運動」という、坑内外での保安を保つ運動が始まった。この時点で1日1人平均の自己が頻発していた、という。

朝鮮人の労働災害について、佐渡鉱山は「生命保険に加入させて、保険金300円を贈呈」としているが、実際に適用されたのか不明だ。故による死傷以外に、朝鮮人労働者を苦しめたと推定されるのが珪肺(けいはい)である。いわゆるじん肺(じん肺は鉱山や建築物の壁などの粉じんを長期間吸い込むことによって、肺の中に付着することで生じる病気)で、大正期の「安田部屋」所属労働者の137名の死亡記録があり、多くがじん肺の可能性が高いと思われる。

佐渡鉱業所における朝鮮人の闘争は、二件確認されているが、「募集」時の労働条件の不達、と朝鮮人への差別が主たる原因と指摘されている。また逃亡によって健康・生命を守る例も少なくない。1940年2月から1948年6月までの3年4ヶ月の間に逃亡者は148名あり、全体の14.8パーセントに達する。

1937年の証言では「飯場から逃げた者がいると、すぐさま鉱山の事務所から警察に連絡がいく。そこで小木・夷の波止場では、警察と部屋頭が船に乗る人たちの目を光らせる。そこでもしつかまったら、すぐに鉱山に引きもどされる。そして折檻をされた末、いつも見張りをつけらることになる」とある。上記は日本人労働者の様子だが、朝鮮人労働者の場合はより厳しいものとなったのではないか。

佐渡鉱業所では朝鮮人に現金を所持させないため、賃金を故郷(家族・行政機関)に送金させたり、強制貯金をおこなった。これはインフレを抑制すると共に、朝鮮人の逃亡を阻止することに狙いがあったと思われる。

佐渡鉱業所で働く朝鮮人労働者の労働と生活は日本の3つの機関によって管理されていた。第一は彼らを直接「雇用」した三菱鉱業である。1920年代に労使団体を組織し、三菱鉱業は「麗水会」を組織した。その後1932年に「協和会」に統一した。第二は重要産業団体令にもとづき、鉱山統制会が設立(1941年)され、労務管理の視察がなされた。第三に、特高警察による朝鮮人の徹底した管理・取締である。1910年代後半から日本に居住する朝鮮人はすべて、日本の官憲が組織した融和組織に組み込まれた。

朝鮮人支配機構は協地域別、業種別でおこなわれていた。1939年6月中央協和会が結成された。中央協和会の指揮、指導系統は二つあり、一つは中央協和会と府県協和会という線であり、もう一つは内務省警保局一各県警察部一各警察署という系統である。各地域の朝鮮へは、すべて特高の管理下に入った。

佐渡鉱業所での協和会の活動は、大きく二つに分けられる。一つは朝鮮人の日本人化・皇民化のためのもので朝鮮人労働者とその家族を対象とする「講習会」の実施があげられる。後者としては地元有力者に対する啓蒙活動で警察署所で「募集朝鮮人労務者い関する懇談会」開催がある。また神社へ参拝し「補導員移動講習会」が開催された。

1945年8月15日現在、新潟県内約40ヶ所の事業所に、5000名近い朝鮮人が就労中であったという。そして新潟県内に戦時動員された朝鮮人のうち、最も多くが佐渡鉱山に投入されたのだ。

日本の敗戦となり、朝鮮が解放されたものの、不安はあったが佐渡鉱業所の朝鮮人は日本での永住を希望した数名を除き全員帰国した。

以上、広瀬 貞三「佐渡鉱山と朝鮮人労働者(1939~1945)」をかいつまんで紹介した。ぜひ本編の論文にあたって理解されることを望む。
(文責:編集部)
https://cc.nuis.ac.jp/library/files/kiyou/vol03/3_hirose.pdf
「朝日新聞」2022年2月13日)
(日韓、新たな火だねの佐渡金山 外相会合でも対立 見えぬ関係改善「朝日新聞」2022年2月13日)https://digital.asahi.com/articles/ASQ2F6QKJQ2FUTFK00C.html?iref=pc_ss_date_article