ジョン・ラーベの住んでいた家を訪ね、南京の安全区をあるく

映画「ジョン・ラーベ 南京のシンドラー」日本公開時のポスター

映画「ジョン・ラーベ 南京のシンドラー」日本公開時のポスター 公式サイトhttps://johnrabe.jp

■南京を旅する–1

ラーベについて知ったのは映画の『ジョン・ラーベ 〜南京のシンドラー〜』(2009年)だった。ジョン・ラーベは、ドイツ人でジーメンス社員でナチ党員。南京陥落時は支社長で、南京の安全区委員会の代表となり、中国人を救おうと奔走した。その模様は彼が書いた日記(ジョン・ラーベ『南京の真実』講談社 2000年)に余すことなく記されている。

年明けすぐに南京を旅したのだが、南京の安全区(難民区の名称も使われていた)の場所とラーベの住宅を訪れてみようと思った。

ラーベの日記によれば1937年11月22日17時の国際会議で、南京の非戦闘員のための中立区域設置が話し合われて、その国際委員会の代表にラーベが選ばれた。そして、すぐさまアメリカ大使館をつうじて日本と中国の当局に通告された。

安全区は南京を東西南北に四等分した西北部に位置し、南京市内のおよそ八分の一、東京の台東区や中央区より、やや狭い面積で、(これらの場所が選ばれたのは…)公共の建物が多く、難民を収容するのに便利であり、高級住宅街の住人は避難していて空だったこと。アメリカ人伝道師たちのホームグラウンドだったこともある(笠原十九司『南京難民区の百日』岩波文庫 2005年)。

今の南京では地下鉄新街口と中山路を境にしたちょうど左上の部分だ。

南京市と安全区の地図

南京市と安全区の地図。赤い部分が安全区で黄色の部分が南京城(约翰·拉贝:一个值得被所有中国人铭记的德国人!より)https://k.sina.cn/article_6432341987_17f65bfe3001007kyz.html

安全区の地図

安全区の地図(『南京の真実』講談社より)

今の新街口は南京の繁華街となっており、高いビルやホテル、百貨店、ショッピングセンターが軒を連ねている。もはや南京の歴史の跡など見出せそうにないが、すこし歩くと金陵大学の附属中学を見かけることができる。これは当時のままだろう。

その新街口から地下鉄で一駅の珠江路で降りるとすぐにラーベの家(ラーベ故居)が見える。ここは南京大学の敷地らしく管理もしているようだ。さて、入口にはスマホをかざすセンサーがあるので、そこから入ろうと私が入れたウィチャットアプリを表示するがうまくいかない。ちょうど中を見学していた人が係員を呼んでくれて、入ることができた。

入口脇には管理室があり、そこに詰めているようだ。見ると窓口の棚にノートが置いてあり、名前が記入してある。じっさいスマホよりもノートに記入して入るほうがむしろ楽なのだな。

入口を入るとすぐちいさな住宅があり、その前にラーベの胸像がある。敷地には家を囲むかたちで狭小の土地があり、玄関前にはゴミを燃やすような焼却炉らしき箇所も備えてある。ラーベはこの住宅に1932年から1938年まで住んで、ここで南京の惨状を日記に書き綴った。

ラーベの家(ラーベ故居)

ラーベの家(ラーベ故居)。入ってすぐ家となり、写真左端はラーベの胸像。


家の前にはラーベの胸像がある。胸像下には花が手向けてある。朝早めに行ったが、けっこう来館者が来ているようだ。

家の前にはラーベの胸像がある。胸像下には花が手向けてある。朝早めに行ったが、けっこう来館者が来ているようだ。

ラーベの家の内観。家は資料館として経歴などが展示されている

ラーベの家の内観。家は資料館として経歴などが展示されている

ラーベ家の塀の内側にあったレリーフ。ラーベを中心とした国際委員会の人々。家の塀の内側にも写真資料が展示されている。

ラーベ家の塀の内側にあったレリーフ。ラーベを中心とした国際委員会の人々。家の塀の内側にも写真資料が展示されている

ラーベは中国軍とのやりとりも腹蔵なく描いている。「黄は安全区に大反対だ。そんなものをつくったら、軍紀が乱れるというのだ。(略)これほどまでに言語道断な台詞があるだろうか。二の句がつげない! しかもこいつは蒋介石委員長側近の高官ときている! ここに残った人は、家族をつれて逃げたくても金がなかったのだ。おまえら軍人が犯した過ちを、こういう一番気の毒な人民に命で償わせようというのか!」(ジョン・ラーベ 前掲書)

ラーベは安全区を本当に安全なものとするため、中国軍の施設と軍人を撤退させるために軍人たちと交渉し、多くの困難に対処した。ラーベ、そして国際委員会は警備、看護、食料調達、管理、分配、輸送、難民の収容、施設、家、電気、水道の設備、電話、便所とゴミ、病院と医療設備など、ありとあらゆる問題に対応しなければならなかった。当然ながらすべてに対応できないわけだが、ともかく戦火という厄災に向き合わざるを得なかった。

ラーベの家を後にして、家の前の細い道を北上する。小粉橋という通りで裏道だ。南京大学(金陵大学)と南京鼓楼医院の間の通りで、ふたつの建物は、いずれも安全区で重要な役割を果たした建物だ。大学の建物や鼓楼医院は多くの難民・傷病人を収容、治療した。

ラーベの家。塀に漢字で「拉贝故居」を示す印がある

ラーベの家。塀に漢字で「拉贝故居」を示す印がある

裏道を通ったせいもあり、病院の建物は新しくなっていて気付かなかったのだが、近代的な建物の脇に当時の面影を残す二階建ての建物が残っていたのだった。おそらく南京事件を経た鼓楼医院の建物だろう。道を挟んだ向かいの建物は南京大学だ。当時のままなのかは判然としないが、かなり年季の入ったおおきな建物をそのまま使っているように思われた。

病院を越えると鼓楼に出る。ここは南京城の中心であり、1382年に建てられた。周囲は広くはないが公園として整備されている。ここから地下鉄に乗り、今度は金陵女子文理学院を目指す。現在は南京師範大学となったが、建物などは残されている。

 南京の鼓楼。南京の中心にあり、観光地ともなっている

南京の鼓楼。南京の中心にあり、観光地ともなっている


金陵女子文理学院は米国のキリスト教団体が布教のためつくったもので中国初の女子大学だった。そこへ行く前に安全区のなかに記念碑があるらしいので寄ってみる。地下鉄でまたも一駅で雲南路駅へ。

「高徳」という地図アプリを頼りに進んでゆく。南京大学などのあるところは安全区の中心よりは上部にあたる。なお、金陵とは南京の古称で、古い時代から使われていたようだ。

このあたりは鼓楼区南秀村という地域で、南京大学の施設と住宅が混在している。目当ての「金陵大学集団墓地記念碑」だが、アプリの示すところは大学の敷地だ。門も閉まっているし入れない。仕方ないので柵から見える部分だけを撮影する。次の金陵女子文理学院(南京師範大学)まで集合住宅が立ち並ぶ狭い通りを歩く。このあたりは起伏があり、アパートも密集しているので、同じところをグルグル歩いているようで不安になる。ようやく狭い通りをぬけると、なんとか先のほうまで見通せる広い道に出た。

丘の上にある道の突き当りが、大学の新財政研究所で南京大学(金陵大学)の集団墓地の記念碑がある

丘の上にある道の突き当りが、大学の新財政研究所で金陵大学の集団墓地の記念碑がある


南京大学(金陵大学)の集団墓地の記念碑

南京大学(金陵大学)の集団墓地記念碑。学内にあり門が閉まっているので塀からパチリと撮影


事件現場となった金陵大学の集団墓地の記念碑は鼓楼キャンパスの旧天文学部内にあり、現在は新財政研究所がその記念碑の隣に建っている。当時、金陵大学には3万人以上の難民が収容されており、この場所は亡くなった700人以上の同胞の集団墓地の一つでした。(南京大学歴史学院研究会webより 2024年12月19日)

正面からの大学記念碑。
事件現場となった金陵大学の集団墓地の記念碑は鼓楼キャンパスの旧天文学部内にあり、現在は新財政研究所がその記念碑の隣に建っている。当時、金陵大学には3万人以上の難民が収容されており、この場所は亡くなった700人以上の同胞の集団墓地の一つでした。(南京大学歴史学院研究会webより 2024年12月19日)

基本は住宅街だが、学生街でもあるので若者向けのおしゃれな店もちらほらある

基本は住宅街だが、学生街でもあるので若者向けのおしゃれな店もちらほらある

南京師範大学(金陵女子文理学院)は関係者のみかと思ったが、普通に誰でも入れるようだ。入口の門は正直なところ安普請といった風情だが、広い敷地には中華風の建物が複数配置されていて緑が多い。なかにはちいさな池や芝生の庭園があり、全体が公園といって差し支えない。

建物自体は古めかしい瓦屋根を乗せた民俗様式のコンクリ建築だが、おそらく当時のものではないだろう。

南京師範大学(金陵女子文理学院跡)の正門

南京師範大学(金陵女子文理学院跡)の正門


中華風の建物が敷地内に点在している

中華風の建物が敷地内に点在している

金陵女子文理学院にも多くの難民、主に女性や子どもが収容されていた。やはり南京のありさまを日記を書いたミニー・ヴォートリンが教授を努めていたところだ。

ヴォートリンは、キャンパスを訪れて掠奪をしたり、学校関係者や女性難民を連行・強姦しようとした日本兵グループを追い払い、日本大使館に被害状況を伝えて警備のため憲兵を派遣してもらうなど、避難民の保護に奔走した。その後は痛ましいことにPTSDを発症したようで、治療のため米国に戻り自殺未遂を繰り返して、後に自殺している。彼女も南京事件の犠牲者だ。

昼下がりの庭園の芝生では家族連れなどの市民が、思い思いにくつろいでいた。現在の平和な様子を眺めていると、ここで多くの女性たちが収容されていたとは想像できないが、確かに悲惨な歴史があったのだ。

ラーべが描いたヴォートリン像を日記から引いてみる。「ミス・ミニ・ヴォートリン。実はこの人について個人的にはあまりよく知らないのだが、アメリカ人で、金陵女子文理学院の教授らしい。大変きまじめな女性で、自分の大学に男性の難民を収容するときいて、びっくり仰天して反対したそうだ。(中略)さて、日本当局は、兵隊用の売春宿をつくろうというとんでもないことを思いついた。何百人もの娘でいっぱいのホールになだれこんでくる男たちを、恐怖のあまり、ミニは両手を組み合わせて見ていた。一人だって引き渡すもんですか。それくらいならこの場で死んだほうがましだわ。」(前掲書)

1940年、ヴォートリンさんは治療のための移動の許可証を取得した。PTSD患者だった彼女も南京大虐殺の被害者だった。

1940年、ヴォートリンさんは治療のため移動する許可証を取得した。PTSD患者だった彼女も南京大虐殺の被害者だった。(南京師範大学webより) 日本軍発行の許可証

https://news.njnu.edu.cn/info/1025/128627.htm

ミニー・ヴォートリンの胸像があったのと思うので、かなり奥まで進んでみる。たぶん教師なのだろう、男性の胸像なり全身像はあちらこちらに見られるのだが、それらしいものは見当たらない。さすがに疲れてきたので、後ろ髪を引かれる思いで大学を去った。後で調べると入口近くの奥まった場所に胸像はあったのだ。ヴォートリンの中国語表記を調べておかなかったのが失敗だった。ちなみに中国語では明妮魏特琳と表記されている。

(続く/本田一美)

金陵女子文理学院のヴォートリンの胸像が置かれている場所。百度地図や高徳地図だと南京師範大学 「明妮魏特琳」で表示してくれる(百度地図より作成)

南京師範大学(金陵女子文理学院)のヴォートリンの胸像が置かれている場所。百度地図や高徳地図だと南京師範大学 「明妮魏特琳」で表示してくれる(百度地図より作成)

『南京の真実』 ジョン・ラーベ (著), 平野 卿子 (訳) 講談社文庫 

『南京の真実』 ジョン・ラーベ (著), 平野 卿子 (訳) 講談社文庫 

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『南京難民区の百日 虐殺を見た外国人』笠原 十九司 (著)岩波現代文庫