事件を記念・追悼する場としての南京大虐殺記念館

施設内の30万を示す石碑。なお、1947年の中国国民党政府により開かれた軍事法廷は被害者総数が30万人以上と、事実認定をおこなっている(『南京事件』笠原十九司 岩波新書 1998年)。被害者総数はそれを引き継いだのではないだろうか。
南京を訪れるのは二度目なのだが、最初の時はまったくの観光旅行で、明考陵、夫子廟、中山陵などの有名どころを巡った。南京はかつて中国の首都であったこともあって、様々な歴史的な遺産、史跡がある。なのに、それほどの存在感や観光地としての魅力が伝っていないように思う。それはやはり南京事件のマイナスイメージなのかもしれない。マイナスという意味はやや複雑なので詳述できないのだが、戦争の悲惨な出来事を平和・対話に転換させる契機とすること。マイナスをプラスに転化させることは可能だろう。そんなことを考えて南京大虐殺記念館(正式には「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞記念館」:以下、記念館)を訪れた。
記念館を訪れた日本人は少なくないだろう。元総理経験者も海部俊樹、自民党の福田康夫、総理ではないが野中広務なども訪れている。しかし、かつて記念館に訪れた方は、再訪するともしかして驚かれるかもしれない。2015年に新館が増設されているからだ。この施設については、ユニークなアプローチをされている市川紘司氏(東北大学)の(『プロセスとしての記憶―南京大虐殺記念館』月刊「世界」2018年7月号)を手引として参照し、紹介していきたい。
記念館は1985年、ちょうど日中間で教科書の歴史問題が紛糾している時に開館された。当初は建築面積2000平方メートル程度だったという。その後は、断続的に増改築(2007年、2015年)を繰り返して原型を留めない巨大展示施設になっているという。現在の敷地面積は10万平方メートルを超えて、「東京ドーム2個分」という大きなものとなっている。
建物の敷地に入る前に、記念館に入るには事前に予約する必要がある。アプリのウィチャットか電話予約がある。ほんとうに煩雑でやめてほしいのだが、これについては後述する。
私が訪問したのは土曜日だが、施設の入口前には大勢の人々でごった返している。平日であればもうすこしゆったりしているのかもしれない。ただ、多くの人々が参集していることには少し驚いた。
地下鉄の駅を降りて道の反対側に建物が見える、なだらかな稜線を見せる壁面の前には、水を張った石板池の上に事件の悲劇を表す彫刻が複数配置されている。その壁面は実は拡張された展示棟で、斜めの屋根にも意図されたものがある。「鋭角な三角形のボリュームを敷地端部に向かって片持梁でせり上げる構成をとる」「この鋭いカドがせり上がる意匠は「事件」のアイコンである日本刀の折れた姿として構想されたものらしい。」(前掲書)

外の通りから資料館を望む。斜めの稜線と途中のひび割れ(左端)が印象的だ

石板池の上に事件の悲劇を表す彫刻が複数配置されている
彫刻の並ぶ回廊を越えると、小石が敷き詰められている庭があり、そこを通って施設に入っていく。「施設の大部分は割栗石(割栗石)を一面に敷く、荒涼としたランドスケープに充てがわれているのだ。(略)来館者にこの石庭を空間的に体験させようとしていることは明らかだ」(前掲書) 。さすがにこれは広すぎで、距離もありすぎではないかと思える。
そのように意識させるだだっ広い石庭を通り入館する。入口を入るとすぐに地下に降りる階段があるのだが、その脇には壁一目に文書ファイルが並んでいる。加害者および第三者証人に関する約 1万巻の公文書が虐殺の証拠として納められていることを象徴している。
さらに内部へ進むと犠牲者の氏名が流れ星として天井から正面のスクリーンに映し出され、壁には犠牲となった遺影がややランダムに飾られている。また。いっぽうの壁には事件を経て生存している人々も飾られていた。

入る前に荒涼としたランドスケープとしての石庭を歩く

入口を入ると正面に記念館の文字がありすぐに階段で降りていく。壁面はファイルで埋め尽くされている

壁面には犠牲者の顔写真が星屑のように展示されている

また、いっぽうの壁面には事件に遭遇した幸存者(生き残った方)の写真も展示されている
日本は中国東北占領後、1937年の八一三事変(第2次上海事変)から、当時の中国の首都南京にむけての侵攻が始まる。ここから江南地域への略奪、強姦などの侵略行為がはじまった。さらに日本軍は南京への空爆も行った。
記念館には日本軍の転戦・進軍の経過を記した見取り図や南京の荒廃した街並みの一部を再現した展示もあった。

日本軍の銃も展示されている。日本語の説明もある

日本軍の進軍や空爆などを再現した一角

施設内には館内・館外に献花台が複数あった。そのせいか一輪の花を携えて入館する人々を見かけた

日本の検閲で「不許可」となった南京の写真

婦人・女子たちへの暴行の展示

「百人斬り」を伝える日本の新聞も展示されていた

電話をかけているジョン・ラーベの像

宣教師のジョン・マギーが南京市の状況を撮影した通称「マギーフィルム」のカメラとフィルム
2007年に記念館敷地の東側に展示棟を、西側に「万人坑」発掘現場棟が増設された。「万人坑」とは墓地や死体が遺棄されていた場所という意味だが、そこには犠牲者同胞遺骨陳列室として敷地内で発見され収集された南京大虐殺犠牲者の遺骨が保管・展示されている。なお、ここは撮影禁止だった。そこを出ると平和公園へと抜ける。
平和公園は、記念館西部に位置する平和公園区に開設されている。長い池が配置された庭園の先に、「平和」と名付けられた母子像が設置されている。和平公園から新しい陳列館へと続く。

建物の角に「前事不忘 后事之师」(過去の経験を忘れないで将来の戒めとする)の文字がある

さらにひろい庭を通り南京大虐殺犠牲者の遺骨のある「万人坑」遺跡の資料館へ向かう

さらに「万人坑」の遺跡保存館に向かうのに庭を通る。壁面には犠牲のレリーフが配置されている

和平公園を通って最後の施設へ向かう。奥にあるのが「和平の女神」像

奥まった場所に子どもを抱えた女性の「和平の女神」が屹立する
記念館を訪れて感じるのは、建物へ入るまでの歩くスペースであり、施設と施設の間を歩いたり、途中の距離や配置してあるレリーフの存在だ。この空間や時間が人を落ち着かせるはたらきをするのだろう。
施設内の展示物を見て、人々は様々な葛藤を抱える、たとえば展示の情報をダイレクトに感じて、ややブルーな心境になった人は、石が敷き詰められた庭の空間や広い空間を見て、気持ちを中和させるのではないか。
この建物と場所の意味をあらためて考えたい。<「記念館」である。「博物館」ではないことに注意したい。(略)つまり、博物館的に史料を募集・分類・保存して展示すること以上に、それらが意味する出来事を「記念」することが、この建築の根本原理である。>(市川紘司 前掲書)なお、著者は事件後90年となる2027年の増築を予想しているが、果たしてどうなるだろうか。
この後は、南京市中心の繁華街近くにある。日本軍占領下で「慰安所」として用いられた「慰安婦旧跡陳列館」(正式名称:南京利済巷慰安所旧跡陳列館)にも行ったのだが、あいくに時間が間に合わずに入館することができなかった。記念館の分館として中華民国時代の建物を改修して設置されている。慰安所陳列館は8つの建物から成っている。こちらは内観などは撮影禁止だということだ。外観だけ撮影して、施設を後にした。
(続く/本田一美)

「慰安婦旧跡陳列館」(正式名称:南京利済巷慰安所旧跡陳列館)入口。路地に面していて手狭だ

慰安所陳列館はすべて公開されてはいないようだ。庭に彫刻があった

慰安所陳列館の学生集団らしき見学者。ここも入館者は多い
付)南京大虐殺記念館の入館について
南京大虐殺記念館(慰安婦旧跡陳列館も)は無料だが、前日までの予約が必要となった。訪問者の情報などでは当日入館も可能だとの話もあるが、基本ウィチャットか電話での予約が必要なので、中国語を操る人でないと手続きは極めてハードルが高い。ウィチャットでの手続きを以下に紹介したい。なお、これは自己流なので入館を保障するものではない。可能であれば中国語に詳しい人などに確認してほしい。こういう施設は外国人に対して、より入りやすく設定するよう求めたい。

スマートフォンでアプリのウィチャットから南京記念館を開く

上から
パスポート
姓名
国籍
パスポート番号
生年月日
次のところは老人か障害者など優先的に入れる項目だと思うので、その場合はチェックする
最後にパスポートの顔が出ているページの写真をアップする
■参考
「南京大虐殺の史実展」(「防衛省市ヶ谷記念館の展示を考える会」サイト内ページ)
https://ichigayamemorial.jimdofree.com
https://www.720yun.com/t/82vktlrwd29?scene_id=69746465