あのヒロシマを視る・撮る・映る ふたつの写真展

「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」(東京都写真美術館)
広島についての写真展を観た。1つは「被爆80年企画展 ヒロシマ1945」で、広島市の原爆の惨状とその後を記録した新聞社などの報道機関が所有している資料を集成して写真160点、映像2点を公開。東京都写真美術館で8月17日まで開催されていた。広島の原爆投下直後に撮影された写真も含めた、街全体の姿を追っているのは珍しいのではないか。報道機関が連携し展覧会を主催するのは初の試みだという。
展覧会の案内に使用されているメインの写真は投下直後を捉えたもので、凶々しいきのこ雲の様子が映し出されている。まず直ぐにカメラに収めた人がいることに驚いた。さらに今回展示されている他の写真にも言えるのだが、厳しい情況であっても撮影を優先し、撮影し続けたという、その強い意思に敬意を払いたい、と同時に、撮影者には葛藤やある種の後ろめたさも感じたのではないか。また、よしんばその時に撮影したとしても、それが保存されて遺されるかは保障されない。この災禍とその後の敗戦の混乱で写真そのものが無くなっていても不思議ではないのだが、それが遺っていて公開されている。そのことを貴重に思う。「良くぞ残っていた」と声を挙げずにはいられない。
展示の写真は8月6日の原爆投下から始まる。その翌日の7日から市民たちや、当時の新聞社などの記者が広島の被害を記録した。多くの市民が原爆の影響を受け、火傷や放射能による被害を映し出している。
また、写真には、原爆によって一面焼け野原となった広島の市街が見えている。どこまでも見渡せる風景が続き、まったく人の生活、生存の痕跡も見いだせない。
敗戦となり日本占領後はGHQによって、広島での取材・報道も規制されたと聞く。原爆報道そのものができなくなっていったのだ。これらの写真もそのような制約を受けて喪失、散逸の危機にあった。さまざまな人々による資料を守るための抗いがあったことは想像に難くない。
上記の問題は今日の日米関係にもつながっていると思う。写真展では限界があるだろうが、米国の対応の変化などの資料もあればよかった。日本の新聞が展示されていたが、戦時中と占領後の紙面が違いが表れていておもしろかった。

原爆被害の図も展示されていた

画面から近い距離で撮影できたことがわかるきのこ雲の写真

被害を受けた広島の住民たちを捉えたなまなましい写真

瓦礫の山と化した広島の街の写真とそれに見入る観客

原爆による火傷の治療を受けている被害者

原爆放射線と急性障害のコーナー
■写真に何ができるか――行為としての「集団撮影行動」
いっぽうのヒロシマについての写真展も同じ恵比寿で開かれていた。恵比寿駅ちかくのNADiff a/p/a/r/tという建物の3階にあるMEMという画廊で開かれている<「ヒロシマ・広島・hírou-ʃímə」全日本学生写真連盟の写真表現と運動>がそれである。
全日本学生写真連盟とは「1952年に設立された学生写真家の全国組織である……1959年には大学234校、高校931校が所属し、会員数は34347名に上る」「共同制作」と呼ばれた集団の活動を展開し始め、注目を集めていたという。(田尻歩『ドキュメンタリー写真を発明し直す』よはく舎 2025年)
田尻さんの解説によれば、「共同制作」という方法から、集団的実践としての写真行為を根本的な次元で思考し、1968年後半には「集団撮影行動」へと展開された。1人ひとりが「個」として現実に向き合いながらその把握と変革につながる集団的な撮影行動を学生たちは思考することになる。
当時の社会運動や新左翼・全共闘運動と共振しながら、「撮影者自身をも含む現実における諸事象の全体的なつながりを意識し感受することが重要だということだ」(前掲書)。

展示会場。中央には全日本学生写真連盟の写真集や関連文書が展示されている
そうした認識のなかで1968年8月から1971年まで広島を対象とした撮影が行われ、展覧会を開催し、1972年には写真集『ヒロシマ・広島・hírou-ʃímə』を出版した。今回の画廊にあるのは、その広島への取り組み(広島デー)の「集団撮影行動」の記録であり、彼らの活動(集団撮影ー行為ー写真)の典型として展示されているのかもしれない。
ここで見られるのは被爆地のヒロシマであり、原爆投下されても復興してきた都市であり、時期としては高度経済成長期の日本のなかの広島でもあった。また、広島は軍都としての歴史があり、4万の朝鮮人被爆者がいた。その慰霊碑が建立されたのは1970年だ。そして、平和記念公園の外であった(90年に公園内に移設)。また、徴用工として強制動員された人もいた。
個別に見ていけば、「シージャック」という写真が展示されている。これは当時(1970年5月)広島県と愛媛県間の瀬戸内海で発生した旅客船乗っ取り事件だが、犯人は20歳で、狙撃・射殺された。これはテレビなどでも中継されて世間的にもインパクトを与えたものだ。そして暴力そのものの怖さを伝えたかっこうともなった。この写真は雑誌のグラビアページをさりげなく写している、そこに影も覆いかぶさるが、この事件は場所が広島でもあり、警察の処置については議論もあったものだ。犯罪や暴力についても考えさせられる。
全体で52点の写真が展示されている。展示された写真は被爆地としてのヒロシマ=広島を象徴させるものは、そう多くない。原爆ドームと千羽鶴の写真がなければ、気付かないかもしれない。会場にあった作品リストには撮影年代とタイトルが付されているので、そこから何が写されているの確認できる。撮影者は明示されていない。あくまで集団としての匿名的な表現となっているが、関係者によれば誰の写真かはおおよそ想定されるらしい。
この写真集そのものを見ていないし、全体でどのくらいの点数があったのかは判然としないが(冊子には最初にはおよそ50人の学生が参加したという記述がある)、ここに提示されているのは、学生たちが歩いて感じた広島という場所を、それなりに網羅して抽出された表象だろう。
「集団撮影行動」は集団という形式をとることにより、社会的・全体的な関連を意味づけ、文字通り撮影(のための)という行為を重視し、撮影者と対象との交感・交流をも組み込んだものとして理解する。それは、単に写真を見るだけでは収まらないものとなる。会場には全日本学生写真連盟が出版した写真集や資料・ノートが展示されていた。広島デーの活動アピールや記録などの文書もあった。これらを読み解くことによって「撮影という行為」もあきらかになるのだろう。
(本田一美)
全日本学生写真連盟の活動と作品は以下のサイトで見ることができる。
■もうひとつの写真記録
https://aajps.or.jp/topics/

展示写真

展示写真。下段は「シージャック」

小さな別室にも写真と資料の展示があった

広島デーについての撮影ノート

写真集『ヒロシマ・広島・hírou-ʃímə』の案内リーフレット

写真集『10.21とはなにか』

「被爆80年企画展ヒロシマ1945」チラシ
